牧師ひとくちメモ



2024.3.31

 

主の復活

 

 大きなニュース。それは、イエスの復活である。主の復活の第一発見者は、マグダラのマリヤを始めとした女性たちであった。人の姿をとった御使いたちが、彼女たちの前に現れて、イエスは生きておられるとのメッセージを届けた。それは、希望をもたらすメッセージになるはずであったが、正しく彼女たちに伝わらなかった。イエスを「死人の中に捜」(ルカ24:3)していたからである。

 

 空の墓の事実、二人の御使いのメッセージと続く。それでもイエスの復活を信じるに至らない。さらに、メッセージが続く。「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ24:6) このみことばは、確かにルカ9:22などにでてくる。

 

 思うのです。彼女たちが墓に行ってみると、墓の石が転がされてあり、そこに復活されたイエスが立っておられたとしよう。その方がストーリーは分かりやすい。なぜそうされなかったのだろう。勿論、イエスの復活は歴史的事実である。彼女たち、主の弟子たち、そして私たちにもイエスが求めておられるのは、みことばを通して信じる信仰である。百人隊長がイエスに願った言葉を思い起こす。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。 」(マタイ8:8)イエスは、「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」(マタイ8:10) 異邦人でありながら、イエスのことばこそが生きて働くことをことばにあらわす百卒長の信仰が称賛されている。

 

 墓に行った彼女たちはイエスの復活が信じられたのだろうか。「彼女たちはイエスのことばを思い出した。」 (8) 復活の事実さえも、その示された神のことばの約束を信じところから始まっているのがわかる。






聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



















2024.3.17



救いは今です

 

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 (マタイ9:13) 罪人の読み方は、「ざいにん」と「つみびと」がある。「つみびと」は、生まれながらに罪を持ち合わせている人。すべての人を指して述べたものである。

 

 次の聖句からも明らかである。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(ローマ3:23)    ゴルゴタの丘の三本の十字架、真ん中にはイエス、二人の犯罪は右と左に架けられた。彼らは、「ざいにん」であるとともに、「つみびと」でもある。私たちは、「つみびと」ということになる。聖書の人間観は性悪説であることを忘れてはならない。

 

 犯罪人の一人は、主イエスに「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」 (ルカ23:42) 主イエスはどう答えられたのだろうか。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(同43) と、救いの約束された。よいことをしたら救われるのだろうか。善人が救われるのだろうか。頭がいい人が救われるのだろうか。長く教会生活をしたら救われるのだろうか。聖書をよく読んでいる人が救われるのだろうか。時間をかけて除々に救われるのだろうか。教会に行くようになってよい人になったら救われるのだろうか。 全部正しくはない。主イエスを救い主と信じる者が救われる。「神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。』見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。 」(Ⅱコリント6:2) 犯罪人の一人に、主は救いを約束した。

 

 救い主は、今あなたを招いておられる。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(黙示録22:17)  救いは今です。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方(イエス・キリスト)を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24) 

 

 キリストの十字架は、全人類の罪の身代わりのためであった。身代わりとなってくださって、すべての人の罪をお赦しになるためだった。確かに、すべての人が救われる土台は整ったことになる。あえて主イエスが招いておられるのは、イエス・キリストの救いを信じる決断が求められているからである。「自分はあまりにも罪深い。何で主イエスを信じるだけで救われるのか。信じられない」と、言われるのは分からんでもない。まずは、信じることです。人生は、そこから変えられていく。信じればわかる。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)















2024.3.10


神の宥めは御子によって成し遂げられた

 

 神の怒りに対して神への宥めが求められる。何をもって神を宥めることができるだろうか。人の罪の代償は、人の側で準備して差し出せるものはない。神の側で備えた唯一の方法がある

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4章19節) 

 

 19節にあるように、神のひとり子を通してである。世に遣わされました。それは、クリスマスである。私たちと同じ人として世にお生まれになられた。私たちと違う点は、何一つとして罪を犯したことがなかった。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。 」(Ⅰペテロ2:22)とあるとおりである。 その御子が、私たちの罪を負われたのである。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」 (同:24) それが、「世に遣わ」された理由である。

 

 それは、私たちにとっては驚くべき方法であっても、神が満足できる方法である。「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。」(:20)   とあるとおりである。

 「世に遣わ」されたもう一つの理由と通して、「私たちにいのちを得させてくださいました。」とあるとおりである。 その「いのち」は、「御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。 」(Ⅰヨハネ2:25)   罪にあって滅びるしかなかった者が、救われるのである。

 

 神は自らの宥めを求めるほどに、罪に対して怒りを覚えている。神は人を愛するがゆえに、罪ある人が滅びてしますことを望んでおられない。怒る神と愛なる神は、相容れないように思われる。そうではない。辻褄(つじつま)は合う。遣わした御子にすべての人の罪を負わせて、罪を贖ってしまうと言うのである。「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。 」(Ⅰヨハネ2:2) 

 

 私たちの側として信仰告白が求められている。「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。 」(ローマ10:9)







聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)















2024.3.3

 

平和を祈ろう

 

 エルサレムは、「平和の町」の意味があります。イスラエルはハマスと戦争状態にある。停戦が叫ばれ、世界中から避難の声が上がっているのにイスラエルは争いをやめないのはなぜだろう。

 

 歴史は紀元70年、ユダヤ人が住み慣れた自国を失ったことにまで遡って考えて見なければならない。彼らは、ローマによって戦いに破れ国を追われた。時代が変わり、どこに住まっても迫害が止むことはなかった。

 

 1930-1940年代には、ホロコーストが起きた。600万人のユダヤ人がナチス・ドイツによって虐殺された。アンネの日記や、シンドラーのリストなどの映画を通しても、暗い彼らが負う歴史の重さを思う。

 

 戦後、パレスチナの地にユダヤ人による独立国家「イスラエル」が誕生した。数度に渡る中東戦争にイスラエルは勝利して、国土を広げていった。イスラエルはハマスの戦争にあって容赦なく徹底的に戦うのは、再び国を失ってはならない思いがあるからなのだろう。私は、戦争を擁護するつもりはない。現状をどう見るかということである。

 

 「平和、平和」と言うだけで平和になれるものではない。「平和を求め、それを追え。」(Ⅰペテロ3:11)は、強い表現である。一人ひとりが、真剣に平和を追い求めなくてはならない。まずは、平和のために祈ることから始めたい。








聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)












2024.2.25


イスラエル人は救われるのか

 

 キリストの十字架から2千年経た今も、イスラエル人の多くが救い主を信じていません。それは大変に残念なことです。パウロがこのようなことを記しています。「ユダヤ人にとってはつまずき」(Ⅰコリント1:23)だったからです。彼らは、癒やしとか奇跡といった目に見えるところのものを持って信じようとします。十字架に架かられて死なれたのは、弱さの極みです。なぜに死んだ人が自分たちを救ってくれるはずがない。そう受け止めていました。

 

 では、彼らは救われないのでしょうか。ローマ11章25-26節にこうあります。「この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、 こうして、イスラエルはみな救われるのです。『救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。』」 

 

 救われるには、主イエスをわが救い主と信じ受け入れなくてはなりません。その時が必ずきます。今は、教会時代(異邦人の時)ですが、この時代の後に彼らに対する救いの時が準備されています。ハレルヤ







聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)










2024.2.4


宣教の重荷を

 

 神学校を卒業して43年になる。その間、いくつかの教会を牧会させていただいた。比較的、規模が小さな教会が多かった。それぞれの教会に遣わされて思うのは、みなカラーが違っていたということである。賛美に熱心な教会があれば、祈り会に多くの信徒が集うところがある。長い時間、役員会をする教会があれば、30分くらいで終わる教会もある。

 

 それぞれの教会のカラーは違っていても、宣教に対する重荷に違いはない。イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい』」(マルコ16:15)  聖書は、すべての人に福音を伝えるようにと言っている。宣教は、教会を大きくするためではない。失われた魂を幾人かでも救われるようにと願っての働きである。

 

 教会が、宣教の使命を失ったとしたら大変なことになる。この地上のものでは人の心が満たされることはない。すべての人が福音を必要としているのである。






聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)













2024.1.21

 

望みが失せる中にも 

 

 私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 (ローマ人への手紙5章1節)  

 

   ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスの争いが毎日のように報道されている。暗いニュースを毎日のように見聞きしていると、先の望みが見いだせない思いになってしまう。いつになったら戦いが終わるのだろうか。戦争が拡大すると、世界中が巻きこまれてしまう心配が拭えない。現地の状況をテレビ画面に映し出されて、道や住まいなどの建物も破壊され、多くの人がいのちを失い、多大な危険(リスク)を冒してでも戦うのを見ると、大きな悲しみを覚える。

 

 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」 (マタイ5:9) の聖句を思い起こす。平和は単なる理想に過ぎないのだろうか。「平和がいちばん」だとしても、自然にそうなるものではない。積極的に「平和をつくる者」として、取り組む意識を失ってはならないのではないか。

 

 「平和をつくる」それは、神が人に求められている使命ではないだろうか。だからといって、戦地に赴けと言っているわけではない。私たちは、日々の歩みの中にあっても、時として争いごとが起こることがある。その時には、神が与えられた使命によって「平和の使者」としての役割を担いたいものである。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)













2024.1.7

 

心一つに祈る教会

 

 信仰生活においては、祈りの生活を大切にしなくてはならない。わたしたち神戸西聖愛教会は、この一年の標語とみことばを次のように決めた。標語は、「心一つに祈る教会」 みことばは、「教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」 (使徒の働き12章5節)とした。

 

 キリストは、密室での祈りの大切さも教えられた。教会が、心を合わせて祈ることも大切である。使徒ペテロが捕まった。その出来事は教会の一大事である。こんなときに、嘆願書や何かの運動をするようなことよりも、「教会メンバーが共に心合わせて祈ろう」ということになったのだろう。祈りは聞かれるところとなった。解放されたのである。

 

 アブラハムは、「主にとっては不可能なことがあるだろうか」(創世記18章14節)と述べている。私たちもこのような信仰が与えられたらと願わされる。「心一つに祈る教会」が、そのとおりに続けられ、祈りが聞かれる、神の御名が崇められるように。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)














2023.12.31

 

 

恵みの落ち穂拾い

 

 2023年12月31日 個人的には、元旦礼拝説教準備と祈りの時を持ちながら、恵みの数々を思い起こしている。このようなみことばがある。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。 主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2) しっかり、恵みの落ち穂拾いをしておかなくてはならないと、思った次第である。

 

 2022年1月1日に、私たちは、2つの教会が統合合併した。少しずつではあるが一つになってきているのがわかって嬉しい。まるで、昔からそうなるように導かれていたと思えるほどである。恵みの一コマとして、心に刻んでおくことにしよう。

 

 もう一つ、私たちの教会は、受ける教会から与える教会へと意識改革を進めてきている。これからも続け行かなくてはならないが、牧師の私も4教会で奉仕することができた。本日も他教会に出向いて説教奉仕にあたることができた。これも恵みの一コマとして、心に刻んでおくことにしよう。

 

 来る2024年も、恵みの年であるようにと願っている。






聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)













2023.12.17


クリスマス・プレゼント

 

 クリスマスの楽しみとして、クリスマス・プレゼントがある。私が子どもだったころは、夜になるとサンタクロースが来てくれると信じていた。教会学校では、毎年、高価なクリスマスプレゼントが用意されていた。鉛筆1ダースとクリスマスケーキなどの組み合わせは、今、考えても驚いてしまう。

 

 クリスマス・プレゼントの意味についてである。ヨハネの福音書3章16節にはこのように記されている。「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここに、プレゼントの意味が記されている。「 神は、実に、そのひとり子をお与えになった」とある。ひとり子とは、イエス・キリストである。イエス・キリストというお方を通して、永遠のいのちという救いがプレゼントされたのである。

 

 クリスマス・プレゼントを通じて、イエス・キリストの救いが伝えられなくてはならない。何の意味もないクリスマス・プレゼントであってはならないと思っている。クリスマス・プレゼントを送るときは、トラクトかクリスマス・カードを添えて送りたいものである。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)

















2023.12.17



メシヤ 4つの名 

 


 アドベント礼拝では、イザヤ書7章、9章、11章のキリスト降誕の預言が開かれる。17日は、イザヤ9章6節の預言を中心に説き明かそうと願っている。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(6)    この6節において、「メシヤ」を描くために、4つの名が用いられている。最初にこの聖句を詠んだときは戸惑った。「不思議な助言者」がどのような意味なのかよくわからなかったからである。4つの名の意味について説明してみましょう。バイブル・ナビP1679から引用する。

 

 不思議な助言者……他に例のない、優れた、無比ないお方で、正しい助言を与えてくださる。

 力ある神……………神ご自身である。

 永遠の父……………時間を超越した存在、私たちの父なる神である。

 平和の君……………この方の統治は正義と平和の統治である。  

 

 神が人となって世にお生まれになられた「みどり子」は、メシヤであることが明らかにされている。イザヤ9:6は、実に驚くべきことが記されている。目が開かれた思いがする。






聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)













2023.12.10


道を備える者

 

 

 荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。   

                  

 

 アドベント第2週に入った。バプテスマのヨハネを取り上げることにした。(以下、バプテスマのヨハネは、ヨハネと記す。)

 

 ヨハネは、先駆的な働きを担うことになった。彼のことは、イザヤ40:3の預言の中に見ることができる。「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。 」(イザヤ40:3 )

 彼の役割は、主イエスが公生涯がスタートする少し前から始まったように思われる。「ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」 (マルコ1:6)現在の私たちの生活とは、かけ離れたものだ。世俗から離れて神の声が聞こえるところに身を置いていた。

 ヨハネは、2つのことをしてきた。1つは、「この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」(ヨハネ1:6) もう1つは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」(マルコ1:4) 

 

 ヨハネを例えれば、車のナビゲーションのような存在ではなかったか。行き先を示し、そのとおり運転したら、ほぼ迷うことなく目的地にたどり着くことができる。道を備える者は、救い主を、救いの道をはっきり示さなくてはならない。クリスチャンにも求められているところだ。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
















2023.11.26

 

収穫感謝礼拝

 

 今年も、収穫感謝礼拝ができるのは大きな恵みである。11月の野菜は、9月にタネを蒔いて育てたものが大半だそうだ。今年の残暑も厳しかった。その分、害虫被害の影響を受ける。収穫感謝礼拝には、何とか間に合ったようだ。毎年の繰り返しの行事だからといって、あたりまえとは思えない。

 

 世界的にも、異常気象やロシアによるウクライナ侵攻により、モノ不足の影響がでている。円安の影響もあってか、物価高騰の歯止めが効かない。鳥インフルエンザが佐賀県で起こったと、先程のニュースで流れていた。多くのニワトリが殺処分されるのはやりきれない思いがする。

 

 生産者も、消費者も、詩篇65篇9節「 あなたは地を訪れ 水を注ぎ これを大いに豊かにされます。 神の川は水で満ちています。 あなたは こうして地を整え 人々の穀物を備えてくださいます。」のみことばに目を止めていただきたい。 人々の穀物を備えて養われる主の恵みに、心を止めたいものである。










聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)






















2023.11.19

 

アブラハムへの約束

 

 私たちは、これからどのような時代になるのか不安を覚えている。今年の10月に入りイスラエルとハマスとの戦いが始まった。中東から遠く離れた日本にあっても、関心をもっている人が8割に上っている。イスラエル、そして中東は、聖書の世界である。神は、アブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」(創世記12:2) と、告げられた。「アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。」(創世記18:18) 

 

 アブラハムは、イスラエル、アラブ、クリスチャンにとって共通の父である。エルサレムは、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教にとっての聖地である。

  「大いなる」とは、アブラハムが数的に、影響力においても、霊的にも力を持っているの意味である。パウロは、ローマ人への手紙の中で、「アブラハムは、私たちすべての者の父です。」(ローマ4:16)と、記している。何よりも、アブラハムの子孫からキリストがお生まれになられる。そして、全世界にキリストの福音が宣べ伝えられている。




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





















2023.11.5


 

エルサレム崩壊と建国(2)

 

 第2次世界大戦が終わり、国際連合はパレスチナ問題の解決をめざすことになります。1947年11月29日の国連総会で、「パレスチナを分割して、ユダヤ人とパレスチナ人の二つの国家を建設し、聖地エルサレムは国際管理下におく」議案を出しました。結果、過半数の賛成を得て、1948年5月18日にイスラエルが建国します。

 

 ヨーロッパからのイスラエルへの移住が続きます。ユダヤ人が紀元70年に離散してから、自分たちの独立国家を築くことになりました。安住の地ができたことになります。これは驚くべきことです。

 

 聖書には、多くの預言がでてきます。

「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」( エゼキエル36:24 )   

「わたしが彼らを諸国の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集めるとき、多くの国々が見ている前で、わたしは彼らのうちにわたしが聖であることを示す。」( エゼキエル39:27)  

 「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。」(イザヤ43:5)

聖書には、この出来事を記した多くの預言がでてきます。

 

 1948年のイスラエルの建国は、神のみこころだったわけです。パレスチナに住んでいた人が追われて、そこに独立国家が誕生したのです。違う宗教、人種が暮らすのですから、争いが起こります。第一次から第四次中東戦争が起こります。いずれもイスラエルが勝利してパレスチナでのイスラエルの領地を広げることになってしまいました。パレスチナ民は領地を奪われ、生活していた地を去らなくてはなりませんでした。







(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)












 






2023.10.29

エルサレム崩壊と建国 (1)

 

 西暦70年にローマ帝国が8万の兵を持ってエルサレムを攻囲戦を仕掛けた。最後は兵糧攻めにより、陥落します。元を正せば、ユダヤの民衆が当時のユダヤの指導者に乗せられて、イエスを「十字架につけろ」(マタイ27:22)  と叫んだことによる。こうも言っている。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」 (同:25)   と、言い放った。

 

 それから40年、エルサレム陥落になる。ついに彼らは、住み慣れた地を退去しなくてはならなくなった。残った人々は、四方八方、特にヨーロッパ方面に散っていきました。ユダヤ人が住む安住の地は無くなった。どのよう時代の中にも迫害を受けることになった。

 

 歴史的によく知る迫害は、ホロコーストと呼ばれるものである。ホロコーストとは、ナチスドイツ政権とその同盟国によって、ヨーロッパのユダヤ人約600万人に対する国ぐるみの組織的な迫害及び虐殺行為のことだ。600万人のユダヤ人が殺されました。

 

 リトアニア大使だった、杉原千畝氏は、愛の発給ビザを発行して、ユダヤ人6千人を救うことになる。彼はクリスチャン。東洋のシンドラーと言われます。アンネの日記、シンドラーのリスト、隠れ家(1975年 ビリーグラハム伝道協会 映画)などを通じて、ホロコーストの悲惨さをご存知かもしれない。(つづく)




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)

















2023.10.15

 

 

ハレルヤ

 

 ハレルヤと聞くと、私はヘンデルのメサイヤの中にあるハレルヤコーラスを思い起こす。クリスチャンの中では、ハレルヤ・コーラスを歌った敬虔があるかもしれない。「ハレルヤ」は、聖書の詩篇とヨハネの黙示録19章にでてくる。詩篇は、全部で150篇あるが、145-150篇に集中している。じっくり読んで見られるとよい。最後の150篇は楽器をもって主を賛美することが求められている。

 

 「ハレルヤ」は、ハレル+ヤハの合成語である。ハレルは、神への賛美すなわち、ほめたたえる意味で、「ヤハ」は、「ヤハウェ」すなわち神のことである。神をほめたたえるが。ハレルヤである。150:2には、「その比類なき偉大さにふさわしく 神をほめたたえよ。」とある。賛美は、神への最高の贈り物である。

 

 日本の教会でも、「ハレルヤ」を口にするようになった。恵まれてハレルヤ!が口にでるのは当然なことである。気恥ずかしいと思うのは、日本人の特質なのかもしれない。それを強制するようなことだけは避けたい。黙示録19章には、天上の賛美がでてくる。間違いなく、天上では「ハレルヤ!」と賛美している。







(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)











2023.10.8

 

アイラ・サンキーのようになって欲しい(2)

 

 アイラ・サンキーについて知っていただければと願っている。

 

 サンキーは、19世紀後半に米国や英国で活躍した音楽伝道者である。R.Aムーディーと働きを共にしたリバイバリストである。1982年にケッブリッジで学んでいたバックストンは、学内で彼のメッセージを聞いて新生の恵みをいただいた。そのとき、サンキーも同行して歌ったのだろうか。記録がなく、詳しくわからない。バックストンが日本に来たのは1890年。もし、ムーディーやサンキーの働きがなかったとしたら、日本の宣教はどうなっていただろうかと思うほどである。

 

 サンキーは、誰でもが歌えるシンプルな曲作りを目指した。福音唱歌「ゴスペル」と言われる。日本においては、国教会の教師であったバックストンも弟子たちに福音唱歌を教えたようだ。その弟子も訳詞、作詞、作曲している。

 

笹尾鉄三郎 (新聖歌42,49,88,101,171,234,254,331,363,389)、

三谷種吉 (新聖歌89,182,256,261,282,441)

 











2023.10.1


アイラ・サンキーのようになって欲しい(1)

 

 私たちの群れは、教会音楽に力を注ぎ始めている。そのためには、まずは中田羽後とアイラ・サンキーについて知っていただければと願っている。

 

 私たちは、新聖歌を用いる前には聖歌を用いていた。1958年、この聖歌を編纂、翻訳して出版したのは、中田羽後である。彼の存在なくして、日本のキリスト教音楽については語れない。もう一つ、1960年に日本イエス・キリスト教団に加わり、森山諭師とともに荻窪栄光教会を開いている。

 

 中田羽後師は、1919年にR.Aトーレーの勧めによりロサンゼルス聖書学院で学ぶようになった。同年に同学院の合唱隊でヘンデルのメサイアを歌う。1920年には、北米ホーリネス教会の牧師となった。父、中田重治が渡米して彼とともにメサイヤを聞き、重治は感銘する。それが、ホーリネス・リバイバルの原動力になった。1921年に、父から「アイラ・サンキーのようになってほしい」との願いが、羽後に伝えられてシカゴ音楽専門学校で学ぶようになった。半年ほどの学びの後に、帰国し1923年にリヴァイバル聖歌が誕生した。 (続く)











2023.09.24





祈りの要請

 パウロは、手紙の中に何度も「祈ってください」と祈りのリクエスト(祈りの要請)を書いています。彼はだれよりも祈りを知る人物でした。祈りなくしては、今をそして未来を切り開いていくことは不可能でした。神のみ手は、祈りと連動していると思えるほどです。どのような人も、神への祈りを必要としています。パウロ書簡から「祈ってください。」を拾い上げてみましょう。これは、ほんの一部にすぎません。

 

 私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。(ローマ15:30)   ★福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。(エペソ6:19)   ★兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。(Ⅰテサロニケ5:25)  

 遠慮しないで、祈りのリクエストを教会にお出してください。日本のキリスト教会の危機が言われるわりには、教会の祈りの姿勢が弱くはないでしょうか。それは、私自身の祈りの姿勢にもあると反省するところです。いついかなるクリスチャンも、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。(エペソ6:18)  との勧めから、祈りには限りないほどの時間と熱量が求められているのがわかります。熱量という意味では、石炭を焚べて走る蒸気機関車のようです。祈りの答えを得るまで焚べ続けなくてはなりません。




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









 

 

 

2023.09.10

 

生きることの意味を求めて(3)

 

  私たちクリスチャンは、生きることの意味をキリストとの関係の中で見ています。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストによる罪の赦しを賜ったからです。このような聖書のおことばがあります。

「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」 (エペソ1:7)この「私たち」の中にはパウロ自身をも含めています。罪の赦しという神からの恵みをいただいたからです。

 

 もう一つあります。それは、使命を受けたことにあります。使命(ミッション)こそが、生きる意味に直結します。パウロが主から召しをいただくことになった御言葉を記します。「主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。  (使徒9:15、16)





(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









2023.08.20

 

生きることの意味を求めて(2)

 

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」 (1:21)

このみことばを解(ほど)いてみましょう。

 

◉私にとって◉

「私にとって」と、あります。つまり、私ですから主観的です。

だれかと話し合い総合的に勘案して決めたわけではありません。すべての人に自分自身の考えを押し付けるものではありませんでした。

 

◉生きること◉

 「生きること」と、あります。人は、 生きてゆくことの意味を真剣に追い求める存在です。食べるに窮する中にあっては、食べ物にありつけるかに思いがいくでしょう。「生きていくには喰っていかなくてはならない」からです。

 

◉生きることは食べることだけでない◉

 やなせたかしと言えば、「アンパンマン」でしょう。戦中、戦後 喰うものがない中での英雄(ヒーロー)は、お腹を満たしてくれる存在でした。そこから誕生したのが、「アンパンマン」でした。マタイ4:4    ルカ4:4 では、主イエスの有名な言葉がでてきます。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」  (ルカ4:4 ) 

 

  主イエスは、食べるということに、日常の歩みの中では多くの時間を費やすことになることは十分に納得しておられました。

人はパンだけで生きる ということです。

 

◉生きることは神のことばによる……イエス・キリスト◉

主の話しはそこで終わりません。 のではなく と繋げて 神の口から出る一つ一つのことばで生きる。と述べています。是非とも知ってもらいたい主のお言葉です。生きるすべての答えは、神のことばの中にあります。答えがないところをどれほど突きまわしたところで、徒労に終わります。生きるを神のことばの中に問う。それが、確かな探求ということになります。

人が考え抜いて答えを導き出せるものではないのです。






(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









 

2023.8.13



生きることの意味を求めて(1)

 

 

 江田証(えだあかし)著、「すごい酪酸菌 病気になる人、ならない人の分かれ道」の中で、こう記していました。私たちにとって、「本当の自分を知る」ということは、大きな興味・関心だと思います。「自分は何者なのか」「自分はなんのためにこの世に生まれ、自分の人生にはどんな意味があるのか」。これらの答えを知ることは人生の最終目標であり、醍醐味でもあるでしょう。そしてそのためにも健康でありたい。 ……。

  「自分は何者なのか」

  「自分はなんのためにこの世に生まれ、……」

  「自分の人生にはどんな意味があるのか」

それに、聖書はこれに答えを提供しています。

私は、江田医師が答えを握らずして、このようなことが書けないと思いました。

彼は、聖書を読んでいる人なのかもしれません。

 

 作家として名が知られている五木寛之は、「人生の目的」の中で、人生に目的はあるのか。「私は、ないと思う。何十年も考えつづけてきた末(すえ)に、そう思うようになった。」と、述べています。

彼は正直だと思いますが、聖書に自らの問いをぶつけたことがあったのでしょうか。

 

 竹内まりやが作詞した「いのちの歌」は、よくご存知でしょう。

小6の音楽の教科書にも載っています。歌詞の一部 生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに♪ …… 本当に大切なものは  隠れて見えない♪この「いのちの歌」の 生きてゆくことの意味は、本当に大切な 問いかけだけれども その答えは 隠れて見えてはいないと詩っています。

 

 その問いかけに答えているのが、聖書です。本日は、生きることの意味 と題して ピリピ1章20-21節 から話しましょう。










2023.7.30

 

恵みに生きる

 「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」(ピリピ1:29)  

「恵み」については、2つの聖句を開いてみてみましょう。ローマ3:24とエペソ2:8です。

「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」 (ローマ3:24)

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8)

「キリストのために受けた恵み」それは、主のみ救いです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:12) とあるとおりです。
その救いは、「キリストを信じる」だけで与えられます。

 

 パウロは、クリスチャンに対して「キリストを信じる」にとどまっていてはいけないと言います。「キリストのために苦しむことでもある」と教えます。「苦しむ」とは、信仰のゆえに辱めを受けることがありますし、福音宣教のための苦しみもあります。迫害を受けて住み慣れた街を追われることだってあります。パウロは獄中からピリピに当てて手紙を書きました。

「恵みに生きるとは、キリストのために苦しむことでもあるのです。」

 

 今、日本のキリスト教会は危機の中に置かれています。献身者不足、教職信徒の高齢化、子どもと青年が教会から消えたと言われます。まさにきびしい状況です。だからといって、希望を失ってはなりません。

 

 このような状況下にあって、余り大きなことは考えられません。でも、一人が救われるために全力を注ぐことはできます。「何とかして、何人かでも救うためです。」(Ⅰコリント9:22)と、パウロは記しました。何百人とか何千人が救われるようにのビジョンに答えてくださる主ですが、「何人かでも……」には、小さな一歩、また一歩と踏みしめながら、確実に働きを進めていく大切さが教えられています。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)













2023.7.16

神のみこころを知る

 

 

 「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ人への手紙12章2節

 

 「神のみこころ」を生きようとするには、神に捕らえられ変えられなくてはなりません。この世に生きている私たちですが、心を新たにしていただいてとありますように新生(ヨハネ3:3)した魂になる必要があります。新生を霊的誕生と言います。神の救いの恵みをいただいたと言います。

 

 屋根にあるテレビアンテナは、必ずテレビ局の方向に向いています。そうしなければ、受信できません。私たちの心をきちっとこの世から神の側にむけて、神のことばが聞こえるようにしなくてはなりません。なぜに「みこころ」に真剣なのでしょうか。何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けたいからです。

 

 私たちは、この世に生きています。寝ること食べること、学業も仕事も子育ても、この世にあってです。この世を去る日までは、この世との関わりはなくならないのです。自治会長にこの3月になりました。地域の諸問題に関わることになります。ゴミ問題、通学路の安全、草取りなどさまざまです。誰かが関わらなくてはなりません。はっきり言って煩わしいです。日々さまざまなことに関わりながら、神の御言葉に聞こうと心を向けるのです。世々の聖徒たちもそうしてきたに違いありません。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)











2023.6.25


日本のキリスト教の歴史3

 

 プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会ジョン・リギンズ と6月来日のチャニング・ウィリアムズであった。「ヘボン」は、アメリカから宣教師として日本にやってきた。まるで、まってまいたとばかり、宣教師が来日している。1989年には、アメリカ伝道委員会(ボードミッション)、1873年には、函館にアメリカからメリマン・ハリスが宣教を開始した。明治6年(1873)2月24日、政府は、太政官布告第68号により、キリシタン禁制の高札を撤去した。外国からの圧力に屈したといってもよいかもしれない。

 明治期の宣教方法は、ミッションスクール・アプローチというやり方であった。あちらこちらに、ミッションスクールが生み出されるようになった。明治学院、同志社、札幌農学校など名が知られている学校が生まれてくるようになった













2023.6.18

日本のキリスト教の歴史2

 日本でプロテスタントの宣教を開始したのは、バーナード・ジャン・ベッテルハイムである。1846年4月30日に香港から琉球王国に到着し、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在した。1848年には、彼と妻の間に2女が誕生した。わが国で生まれた第1号の西洋人とされる。

 当寺は、キリスト教が禁教であった。容易に働きが進まなかったが、彼の大きな功績は、琉球語に聖書を翻訳したことにあった。そして、それを配布した。1854年マシュー・ペリーが来琉した。琉球の言語と文化についての知識からペリーのもとで働き、その船舶でアメリカ合衆国に渡った。

 1926年5月、来琉80周年を記念して護国寺に記念碑が建立された。日本のプロテスタントにおいて、ベッテルハイムの伝道は日本のプロテスタント宣教の発端として位置づけられている。

(ウィキペディア「バーナード・ジャン・ベッテルハイム」の項を参考にした。)










2023.6.11

 

日本のキリスト教の歴史1

 

 日本のキリスト教の始まりは、サビエルの来日に始まるとされいる。イエズス会の宣教師で、東洋の使徒と呼ばれた。1549年(室町時代)に鹿児島に到着し、それからの2年余の滞在のうちに平戸、山口 、豊後などに伝道した。500人以上に洗礼を授けた。

 

 伴天連追放令が発令されたのは、1587年です。秀吉の時代のできごとである。日本でのキリスト教布教活動は制限され、迫害を受けるようになった。家康は、一時はキリスト教布教もイエズス会と和解してよくなったが、あるときから、完全に禁教するようになった。

 

 禁教令高札の廃止は、明治6年(1873年)のことである。キリスト教は黙認されるようになった。










2023.6.4



慰めに満ちた神


 それぞれ、与えられた聖書の言葉があるでしょう。個人的によく思い起こす聖句の一つに、コリント人の手紙第二  1章3節があります。「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。」

 この手紙には、パウロの逆境体験が記されている。同8節に、「アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。 」と、記している。アジアで起こった出来事の詳細は、聖書中どこにも記録として残されてはいない。

 3節の「慰めに満ちた神」は、パウロ自らの体験から確信しているところである。神から慰めを受けるとは、なんの苦しみも消え去るはずだと受けとめている人がいるかもしれない。そうではない。苦しみに対処するための、強さ、励まし、希望を受けることができる。あなたは、神からの慰めをいただいておられるだろうか。









(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

 

 




2023.5.28


終末はいつから始まったのか

 

 聖書には、終末のことが述べられています。いつから終末に入ったのでしょう。「今は、終末なのか」と、問われたならばどう答えるでしょうか。応えは、Yesです。二つの聖句を見てみましょう。一つは、使徒の働き2:17-18です。「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。 」ここに、「終わりの日」とあります。ただ、この聖句だけでは、時を特定するのは難しいです。

 もう一つの聖句としてヘブル人への手紙1章2節です。ヘブル1:2⇒「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」 とありますように、主イエスの来臨(初臨)以降を指しているのがわかります。ますますこの世の終わりの様相が深まってきているように思います。今は、救いの門戸が開かれています。福音が全世界に述べ伝えられますと終わりがきます。宣教への思いを熱く燃やしたいものです。






(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

 

 






2023.5.21


聖書は「眠り」について語る

 

 エンゼルスの大谷翔平選手は、どこでもよく眠るのだと言う。夜、なかなか眠れないという人がいる。夜勤があったりで生活のリズムが整わない人もおられるだろう。私自身は、雨の日と日曜日以外はウォーキングするようになった。そうしたところ、夜、よく休めるようになった。

 

 それでも、心配事があったり、何か緊張するようなことがあると眠りにつけないことが起こります。詩篇には、「眠り」についてこのようなみことばがでてきます。「私は身を横たえて眠り また目を覚ます。 主が私を支えてくださるから。」(詩篇3:5)  「主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(詩篇127:2)  自分に眠りを与えてくださるだけでなく、目覚めをもあたえてくださる。神か゜私たちの心に平安を備えてお休みなさいと言ってくださるのは、何と幸いなことであろうか。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

 

 





2023.5.14



輝いていますか

あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

 今でこそ、灯りの用い方は様々である。一人暮らしを始めたころ、どこに光源を置けば部屋全体を明るくできるのか考えたことがある。主イエスは、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。」と言われた。輝かせよとなると、自分をどこに置くかを考えなくてはならない。
 オカリナが趣味で、部屋で吹くこと以上のことはしていなかった。岡谷教会に赴任して、地域のオカリナの会に加わった。この会は、オカリナを通してボランティアをするための会であった。その会に入って、ボランティアの喜びを知った。教会の中で輝ける存在であるのは重要である。私たちは、「世の光」であるので、世に向かってその輝きを表していかなくてはならない。





(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

 





2023.5.7


 

塩屋聖会も新しい流れが

 

 第88回塩屋聖会は、2023年5月3日から5日までの期間行われました。3日間ともに午前と午後の2回で、計6回の集まりでした。神学校での聖会ですから、スペースが限られています。新型コロナからは少しは自由になってはいるが、対面とYouTubeで行われているので、ありがたいことです。

 

 3日目の午前と午後は、青年聖会として開かれた。ソングリーダーが立てられて、次々と若い世代に沿うワーシップ・ソングが、キーボード、ギター、ドラムのバンド演奏によって行われました。塩屋聖会は、歴史がある聖会です。私自身も、聖会で献身の召しを受けてきたし、聖会の司会もさせていただきました。歴史があるというのは、容易に変えられないものです。あえて、3日目は青年に合うプログラムにイメージ・チェンジしてきました。メッセージは、献身を求める内容です。主講師の宇井英樹師は、かつては東南アジアの宣教師でした。当時の思い出を盛り込んで魂に迫ってくださいました。

 

 聖会が変わってくると、それぞれの教会の賛美のあり方にも影響が大きいと思われました。本気で、青年を捉える、捉えられる教会の姿勢をと願わされました。







2023.4.30



私の時 神の時 

             

 

 「神よ 私を救い出してください。主よ、急いで私を助けに来てください。」(詩篇70:1)

「主よ、遅れないでください。」(詩篇70:5) これは、緊急を示すSOSです。経験したところから申しますと、すぐに神の御手が動き出すかどうかはわかりません。思うのです。私の時と神の時が必ずしも一つではありません。私の時と神の時が違っているからです。

 

 わたしが、新聖歌の中でオカリナで奏でるのが333番です。「神の時の流れの中で」です。

 1 示し給え 深い主の御心を   御神の時の 流れの中で すべては 益となりぬ

 2   示し給え 歩むべきわが道を  御神の時の 流れの中で すべてを 感謝しつつ

                               アーメン♪

 神は、神の時の 流れの中で すべては 益となるように願っておられます。私たちは、2020年から新型コロナの中を通されました。いつ終わるか現在も出口が見えてきません。そのような中で、統合合併をするようにと導かれました。決して楽な道のりではありませんでした。対面での礼拝ができない時が数ヶ月続きました。

 

 私はこのように受け止めています。苦しみの中を通されたことは何のプラスもなかったのでしょうか。群れは、忍耐を学び、信仰が強められました。

 

 人の時と神の時は同じではないと申し上げたのには、「世の終わり」に関することを特に思ったからです。世の終わりのしるしが、マタイ24章などに述べられています。それを読むごとに、終わりがそこまで近づいていると思えますが、確かな時のしるしなのかは測り知ることはできません。すべてのことに御神の時の流れの中に、身を委ねたいと思います。委ねて生きるのが、幸いな生き方ではないでしょうか。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 




2023.4.23



信仰・希望・愛

 

いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13:13) 

 

 信仰と希望は、わたしたちが生きている限りなくてはならないものです。「希望」も「信仰」も、キリスト教においては極めて大切なものです。 まずは信仰について考えてみましょう。わたしたちは、罪から解放されるためには、キリストを信じる信仰によって義と認められることが教えられているからです。

 

 未来に向かって生きるためには希望がなくてはなりません。やがてキリストがおいでになる(再臨)ことを信仰によって望みながら生きるのです。

 

 「愛」は、神のものです。「神は愛です。」(Ⅰヨハネ4:16)という言葉は、愛が、わたしたちの生死を超えた永遠のものであることを教えています。だからこそ「愛」が最も大きいものです。

 

(参照 365日の聖書 賀来周一 キリスト新聞社 286P)



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 


2023.4.16



慰めの神

 

あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。 (Ⅱコリント1:3) 

 

 キリスト教の歴史は、迫害の歴史であったといわれます。長崎や天草では、バテレン追放令がでて、隠れキリシタンの時代が長く続いてきました。今も、3億4千万人ものクリスチャンが迫害を受けていると報じられています。パウロは、「アジアで起こった私たちの苦難について」(8)語っています。「生きる望みさえ失うほど」(8)のものでした。キリストを信じたがために苦しみを受けるのは、大変に不幸なことのように見えます。パウロは、苦しみの中で不思議な神体験をします。

 

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださる」(4)体験です。国語辞書には「慰め」についてどのように記されているのでしょうか。「悲しみや苦しみを忘れさせて、相手の心を穏やかにすること。心を楽しませること。和ませること。また、そのもの。」とありました。宣教の働きによって苦しみを受けているパウロや主の働き人が、神から受けた慰めは、国語辞書に書かれているものとは違っています。それは、苦難の中に置かれても、再び立ち上がらせてくださるというふうに理解できます。

 

 七十年、八十年の人生を振り返って見るときに、大なり小なり苦しみや悲しみの中を通されます。ある人は、気を紛らわそうと酒や賭けごとなどに走り、人生そのものも台無しにしています。主が与えてくださる慰めは、「苦難に耐え抜く力を与え」(6)というものです。

教会では、証し会がありますか。試練をどのように乗り越えることができたかの体験を、聞かせていただく機会がありました。「私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。」(6) 



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)










2023.3.26


ナツメ椰子の枝

 本日は、棕櫚の聖日である。口語訳聖書では、「しゅろ」とあったものが、新改訳聖書2017では、「なつめ椰子の枝」(ヨハネ12:13)と訳されている。この椰子の葉は、大きいもので2メートルの大きさがある。主イエスが、ロバの子にまたがってエルサレム入城したときには、一面を葉で敷き詰めたのであろう。

 

 ナツメは、デーツと言われる。その実は、お好み焼きソースの原材料として欠かせないものである。イスラエルを始めとして、この地域はナツメの産地である。中東戦争時には、デーツの輸入ができなかったために、お好み焼きソースの生産がストップしたそうである。

 

 主が、エルサレムに入られたといううわさが広まり、人々はエルサレム入城の準備を急いだ。急ぎ準備ともなると、代用品でもと思うかもしれない。しかし、ナツメ椰子の枝を意識して準備したのである。調べてみると理由があるのがわかった。

 

 この〝しゅろ”は、旧約聖書の創世記にでてくる「いのちの木」をあらわす植物なのです。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、その園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」(創世記2・10)しゅろの木は、エデンの園にある「いのちの木」であり、同時に〝神の祝福”のシンボルでもありました。(月刊いのちのことば 2013年3月号 杉本智俊) 





(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)








2023.3.26



天国での賛美

 

 私たちは、地上で礼拝を献げ、主に賛美します。天国でも賛美が御使いらによって献げられています。ヨハネの黙示録にそれが著されています。5章9節。「彼らは新しい歌を歌った。『あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、…。  』」  とあります。

 

 だれが崇められているのでしょう。子羊イエスです。あなたの血によって人々を神のために贖ったからです。キリストの十字架が賛美されているのがわかります。歌っているのは、数え切れないほどの御使いたちです。御使いは、罪を犯したことがないので贖われることはありません。その御使いたちが子羊イエスを讃えます。

 

 私たちは、地上にいる御国の民です。どのような思いをもって賛美しているでしょうか。天上においても、新しい歌が歌われていました。詩篇の記者は、「新しい歌を主に歌え。」と6回記しています。

詩篇33:3⇒新しい歌を主に歌え。 喜びの叫びとともに 巧みに弦をかき鳴らせ。 

詩篇96:1⇒新しい歌を主に歌え。 全地よ 主に歌え。 

詩篇149:1⇒新しい歌を主に歌え。 敬虔な者たちの集まりで 主への賛美を。 

私たちの心が喜びと感謝に満たされるときに、新しい賛美が生み出されて歌うようになります。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









2023.3.12

互いに受け入れる

 

 「神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」(ローマ15:7) 教会には、さまざまな人が集まっている。幼子からご高齢者まで、信仰の度合いもさまざまである。求道者もおれば、新来会者もいる。パウロは、「あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」という。それは、国や言葉、政治の違い、性別の違いも越えて、「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」にならってとのべている。なぜそうする必要があるのか。それは、「神の栄光のために」である。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)








2023.3.5

プロテスタント教会には総本山はない

 

 ある牧師に「プロテスタントに総本山はあるのですか」と、質問してきた人がいたそうです。その牧師は、「ありませんよ」と答えました。すぐに、一つのみことばが脳裏に浮かんだのだそうです。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」(ヨハネ4:21)  特に、礼拝する場所についての記述はありません。

 

 ある人は、「聖地はエルサレムではないですか」と、言われる方があるでしょう。そうですね。「エルサレムは神の都」と言われていますから。神のドラマの一大舞台であることに間違いはありません。それでも、カトリックのバチカン大聖堂とか、聖公会のカンタベリー大聖堂のようなものは、プロテスタントの教会にはありません。

 

 主は、どこで礼拝が献げられるかではなく、どのような心で礼拝を献げるかが重要であると教えられています。「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」(ヨハネ4:23)   と話されました。このような意味です。父を一意専心、誠実に礼拝する人々を主が求められておられるのです。





(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)








2023.2.26


十字架のことば

  

 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)ここに、十字架のことばとある。言うまでもなくイエス・キリストの十字架について言っている。主イエスは、私たちの罪の身代わりとなるために、十字架にお架かりになり死んでくださった。

 

 人の罪について見ていこう。神の目は、人の心の奥底までご覧になっておられる。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず 」(ローマ3:23)との結論が示されている。罪は、人に死をもたらした。私たちは、いずれ肉体的な死を遂げる。それで終わりではない。霊的な死が宣告される。そして、永遠の死に定められことになる。私たちは、「私は咎ある者として生まれ 罪ある者として 母は私を身ごもりました。」(詩篇51:4) とあるとおり、罪ある者として生まれてきた。人が、努力と修行に励み清まろうと精進しても、神はよしとはされない。「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20)  行為義認はありえない。

 

 人の側には、救われる自力救済の道はない。「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23)  救いのためには、神の側から道を備えてくださった。御子イエス・キリストの身代わりの死をもって救おうとされたのである。キリストの十字架は、歴史的事実である。けっして、空想話ではない。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9:22) 一度(ひとたび)、主イエスが十字架で血を流されたことにより、血による贖い(代価)は、21世紀の今も変らず効力がある。




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)










23.2.19


アズベリー大学でのリバイバル

 

 日本でも2つのリバイバルが起こっている。一つは、同志社リバイバルで1884年明治時代と大正時代に起こっている。もう一つは、1919-20年、1930-33年に起きたホーリネスリバイバルである。

 

 この度、ケンタッキー州ウィルモアにあるアズベリー大学の学内礼拝でリバイバルが起こった。2月9日から昼夜問わず集会が続いているの。今は、YouTube等で集会を動画でみることができる。集会は、静かであり、そこに集まった人々は温かい思いに包まれるそうである。大学では、いつもどおりの授業が続けられているとのことで、特別なことはしていないのだそうだ。

 

 アズベリー大学・神学校と、日本のきよめ派は関係が深い。多くのアズベリーの教授が来日して、聖会や講演、神学校授業をしてくださっている。また、アズベリーで学ばれ日本の諸教会や神学校で奉仕している先生方が沢山おられる。関西聖書神学校とアズベリー神学校とは関係が深いと聞いている。

 

 私たちの群れも、リバイバルを祈る群れである。その日が来ることを願っている。











 



2023.2.12



主の祈り (2)
  御国がきますように マタイ6:10

 

 毎週の聖日礼拝では、主の祈りを献げている。この祈りには、イエス様の考えや教えが、この短い祈りの中にすっかりと込められている。困難にあるとき、感謝をしたいとき、苦しみや悲しみの中にあるとき、喜びにあふれているとき、様々なときに「主の祈り」を唱えるようにとイエス様は教えている。

 

 主の祈りの中に、「御国がきますように」とある。これは、神の霊的な統治のことである。神を信じる者の心を、キリストが支配されている国のことである。ルカ17:20-21「イエスは彼らに答えられた。神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではない。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」 とある。

 

 いずれ、すべての悪が滅ぼされて、新しい天と新しい地とを確立するときに神の国は完成されとも教えられている。黙示21:1「新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」

 

 主を信じる私たちをご支配してくださっているのを覚えて、感謝しているだろうか。

 

(つづく)


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









2023.2.5



主の祈り   マタイ6:9 (1)

 

 聖日ごとに主の祈りを献げている。主の祈りを紐(ひも)解いてみると実に深いものがあるのが分かってくる。私たちは、とりなしの祈り、自分や家族の必要を覚えて祈る。みこころに叶った祈りは聞かれるのであるが、異邦人のようにくどくどと同じ言葉の繰り返しは、主が望まれる祈りではない。

 

 マタイの福音書6章9-13節から主の祈りを見てみよう。9節には、神がどのようなお方なのかがわかる。天におられる神、「父よ」との呼びかけができる神、それは、神がご人格を持たれるお方であり、愛に満ちたお方であるのがわかる。しかしながら、軽々しく神の御名を呼び求めてはならないのである。私たちの信じる神は聖なる神である。

 

 私たちは、日ごろ祈っているのだが、自分の求めや願いしか祈ってはいないだろうか。祈りには、順番がある。まずは、私たちの神がどのようなお方なのかを覚えて祈りたいものである。

(つづく)


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)










2023.1.29


雄々しくあれ強くあれ


 1月29日の礼拝では、ヨシュア記1章を開きます。1章中には3度も、「雄々しくあれ強くあれ」とのことばがでてくる。モーセの後継者ヨシュアに主が語られたものです。私自身に関し思わされているのは、大胆さに欠けてきているのではないか。そのような自己評価です。今年で満70歳になろうとしているから、年齢からきていることもあるだろうか。

 日々、みことばと取り組む生活をしていると、新しいチャレンジを受ける。それぞれ主の導きがあるから、チャレンジを受けるのは私だけではない。昨年の1月に高和と押部谷教会は統合合併した。奇跡を見るようなできごとだった。今、牧師の私に求められているのは、牧師として群れのビジョンを示していくことである。箴言29:18「 幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。」とある。

 今しばらく、ビジョンのために祈っていこうと願っている。群れの前進を覚えて。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









2023.1.22



信徒説教者

 

 私たち日本イエス・キリスト教団には、「勧士認定」があります。遡ること、教団創立した1951年当時から、「勧士」制度があった。2年前からは、この勧士になるための講習がオンラインで行われるようになった。

 

 「勧士」とは、「信徒説教者」といったほうがわかりやすい。ペテロやヨハネなどの使徒たちも、正規で神学校で学んだわけではない。「無学な普通の人」とある。キリスト教会史を紐解けば、信徒説教者が活躍しているのがわかる。ムーディーの名前をも聞いたことがあるだろうか。アメリカ人で神学教育はおろか、まともな学校教育も受けてこなかった。靴の営業マンで、言葉のなまりもあった。

 

 そんな彼が、キャンベル・モルガンの勧めもあり、英国に渡り宣教した。1882年11月,D・L・ムーディによる歴史的ケンブリッジ伝道において、バックストンは明確に新生したと言われてる。私たち福音派にとって、B.F.バックストンを抜きには語れない。信徒説教者ムーディーなくしてバックストンはなかったかもしれない。

 

 ムーディーは音楽伝道者サンキーと出会う。2人3脚で大衆伝道を進めていった。新聖歌にも、彼の作曲がある。180,217,256.308,312,458を索引の中で見ることができる。今でこそ、学ぼうと思えばどのようにしてでも学べだろう。私たちは、信徒説教者を生み出し育てていく責任がある。











2023.1.15



主に倣いたし

 

 黒人霊歌 「新聖歌404 弟子となし給え」は、家内の父の愛唱歌です。よく歌っていたと聞いている。説教準備していると、さまざまな聖歌やプレイズ・ソングが浮かんでくる。今日は、2曲が浮かんできた。内1曲が弟子となし給えである。

 

 明日の説教は、テモテへの手紙第一 3章16節から、「敬虔の奥義」である。キリストの敬虔から学ぶ大切さが教えられる個所で、この個所は、賛美歌だと言われている。キリストに学ぶ私たちである。

 

 弟子となし給え 4番をご覧いただきたい。同じ言葉が繰り返されているのがわかる。

「主をば倣いたし わが主よわが主よ 主をば倣いたし わが主よ 心の底より 主をば倣いたし わが主よ」 シンプルな歌詞であるが、伝わってくるものがある。わたしも、生涯を通して主に倣うものでありたい。




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)






2023.1.8



神の右の手

 

 牧師のわたしは左利きである。神の利き腕は、間違いなく右の手ということになる。日本の人口全体で見ると、左利きの割合は約10%と言われているから、少数派ということになる。だからでしょうか。聖書を真剣に読み始めるようになって、聖書に最初に右の手とでてくるのは、出エジプト記15章6節である。詩篇には22箇所、イザヤ書には5箇所、ヨハネ黙示録には3箇所でてくる。その他の個所にもでてくる。「右の手」というのは、視覚的に表現したものである。

 

 手というのは、働きを表している。たとえば、イザヤ書41章13節では、「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とある。詩篇118篇16節「主の右の手は高く上げられ 主の右の手は力ある働きをする。」とある。同138篇7節「あなたの右の手が私を救ってくださいます。」 神の手を御手と言っている。私たちは、神のみ働きなくしては、救われることはなかったし、今も喜びを持って行きていっているとは思えない。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









2023.1.1


 

2023年の教会標語

 

 2022年11月から、来年の教会標語とみことばのために祈り始めた。統合合併して2年目になる。教会が財的にも人的にも整ってきている。ここで座り込んでしまうわけにはいかない。

 主の使命に、群れが一丸となって向かっていけるようでなくてはならない。

 

 「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒の働き 20章35節)「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(ヨハネの黙示録 22章17節)の2つのみことばが与えられた。教会標語は、「主のめぐみを分かち合おう」である。

 

 主からみ救いをいただいた私たちである。主は四六時中、私たちと共にいて導き助け、慰め励ましてくださっているお方である。主からの恵みの供給を日々に求める私たちである。その恵みを、与える側にもなるようにと主は求めておられる。世の終わりも近いと思われる今日このごろである。黙示録の最終章では、これから起こる出来事に触れた後に、22章17節の主のことばがでてくる。17節のみことばの最初の部分は、「御霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください』と言いなさい。」とある。

 

 私たちは、日ごろから多くの人と出会っていることだろう。その人たちに、救いの手を差し伸べなくてはならない。「来てください」と、一声かける私たちでありたいと願う。教会の中で、主の仲間同士で、知人や家族へ主のめぐみを分かち合いたい。主の恵みは与えれば与えるほど豊かになる。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)












2022.12.25


クリスマス・プレゼント

 

 クリスマスの楽しみとして、クリスマス・プレゼントがある。私が子どもだったころは、夜になるとサンタクロースが来てくれると信じていた。教会学校では、毎年、高価なクリスマスプレゼントが用意されていた。鉛筆1ダースとクリスマスケーキなどの詰め合わせは、今、考えても驚いてしまう。

 

 クリスマス・プレゼントの意味について、である。ヨハネの福音書3章16節にはこのように記されている。「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここに、プレゼントの意味が記されている。「 神は、実に、そのひとり子をお与えになった」とある。ひとり子とは、イエス・キリストである。イエス・キリストというお方を通して、永遠のいのちという救いがプレゼントされたのである。

 

 クリスマス・プレゼントを通じて、イエス・キリストの救いが伝えられなくてはならない。何の意味もないクリスマス・プレゼントであってはならないと思っている。クリスマス・プレゼントを送るときは、トラクトかクリスマス・カードを添えて送りたいものである。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)











2022.12.18

 

幕屋を張る

 

 私たちの教会では、18日がクリスマス礼拝を行うことになっている。アドベントでは、ヨハネ1章からメッセージを語らせていただいた。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14) は、神が人の姿をとってこの世に来てくださったことが書かれている。

 

 私たちは、この世にあってからだというテントで生活している。旧約聖書で言うとしたら、幕屋ということになる。イエスはベツレヘムにお生まれになられた。私たちの間に天幕を張られたというのである。

 

 目的は、私たちの救いのためであった。私たちの罪を負って身代わりの死を遂げられるために世にこられたのである。キリスト教は、愛の宗教だと言われる。究極の愛は、十字架に表されている。この世に人となって幕ばられた主を深く思わされた今年の12月であったように思う。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









2022.12.11

但馬福音教会のリノベーション工事

 

 私たち神戸西聖愛教会は、日本イエス・キリスト教団 兵庫教区に属している。教区を4つのブロックに分けて活動している。神戸郊外にある私どもの教会から豊岡市にある但馬福音教会までは、一般道を走ると130キロも離れている。その但馬福音教会がリノベーションを行った。

 

 800万の予算で初めたが、傷みが酷くて2000万円を要することになった。完成に至るまでの時間も要した。12月3日の午後8時に引き渡され、翌日の聖日には、入堂、礼拝をおこなったそうである。クリスマスまでには何とか間に合った。本日、池口師から報告をいただいた。祈ってきたので、私たちも共に喜びあいたいものである。

 

 私たち牧師夫婦は、7年間、但馬福音教会で奉仕させていただいた。離任して30年あまりになる。すでに天に召された方々もおられるが、何人かは元気で教会生活をされている。リノベーションされた会堂に、賛美の声が響きわたることだろう。新しい人も来られているという。祈っていきたい。








 

 

 2022.12.4


今こそ、動き出すとき

 

 私たち神戸西聖愛教会が合併統合して最初のクリスマスです。牧師として、これからの当教会がどのような歩みをしていくべきか祈ったり、考えさせられたりすることが多くなってきているように思う。幸いにも、統合したことによって財的にも、人的にも祝されてきているように思っている。どうそれを用いていくべきかを考えようとしているのである。

 

 長く牧師をしていると、さまざまな集会を行ってみたいと願ってみても検討がつかないことがある。経済的に余裕がなかったりする。近隣の教会の牧師や信徒の賜物の一覧リストがあって、自由に働きに用いることができればどんなによいだろう。夢のような話しではあるかもしれないが、私たちの教会から他教会でも用いられる器を、募って奉仕できるようにできないだろうか。

 

 今、多くの教会が長引くコロナ禍にあって、教師や信徒の高齢化によって、動きが止まってしまっているかのように見える。日本のキリスト教界全体が、萎んでいっているようにも見える。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(ヨハネの黙示録22章17節)  今こそ、動き出すときではないだろうか。




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)






 

 2022.11.27



もろびとごぞりて

 

 明日の礼拝から、アドベント(待降節)に入ります。当教会のクリスマス礼拝は、12月18日に行うことはすでに決めているところです。燭火礼拝やクリスマス礼拝の中では、必ず歌うのが、「もろびとこぞりて」ではないでしょうか。新聖歌では、76番に入っています。

 

 この讃美歌は、作詞者がフィリップ・ドッドリッジ(1702-51)で、牧師であり讃美歌作家でした。この曲を有名にしているのは、「メサイア」を作った作曲者ヘンデル(1685-1759)の作です。

 

 調べてみたところ、「もろびとこぞりて」は、メサイアの数カ所からヒントを得て、良いとこ取りで作ったものと判明しているそうです。短い歌詞の中に、大変わかりやすい歌詞が付けられているのがわかります。本日、待降節の説教準備として、2番と3番に着目しました。 

 

2 悪魔の力を うちくだきて、捕虜を放つと 主は来ませり、 

  主は来ませり、主は、主は来ませり。

 

3 この世の闇路を 照らしたもう、光の君なる 主は来ませり、

  主は来ませり、主は、主は来ませり。

 

 主が来られた意味がよく伝わってきます。







 

 2022.11.20


収穫感謝礼拝

 今年も、収穫感謝礼拝ができるのは大きな恵みである。2軒の農家の信者さんの話では、11月の野菜は、9月にタネを蒔いて育てたものが大半である。残暑の影響があったり、害虫被害を受けたりで礼拝に間に合うかが心配だったという。毎年の繰り返しの行事だからといって、あたりまえとは思えない1年であったようだ。

 世界的にもそのように思える1年ではなかっただろうか。ロシアによるウクライナ侵攻がある。世界的な小麦の大生産地が、収穫して船積みが容易でなく消費地に届かなかった。異常気象によるモノ不足が食料品の高騰をまねいた。そればかりではなく、円安ドル高がより物価を押し上げることになった。日本では、10月から鳥インフルエンザがでてきて、多くのニワトリが処分されている。

 生産者も、消費者も、詩篇65篇9節「 あなたは地を訪れ 水を注ぎ これを大いに豊かにされます。 神の川は水で満ちています。 あなたは こうして地を整え 人々の穀物を備えてくださいます。」のみことばに目を止めていただきたい。 人々の穀物を備えて養われる主の恵みに、心を止めたいものである。 




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







 

 2022.11.13


真理を語る

 

 神が説教者に対して語るように願っておられる説教と、人々が牧師に語ってほしい説教は違っているのかもしれない。ビリーグラハムは、このように話しました。「いつの時代も同じです。人々は真理を煙たがります。真理は人気がないのです。」と。なぜに煙たがるのだろうか。それには、理由がある。「人間の隠れた罪を明るみに出さずにおかないからです。」と。

 

 日本の大衆伝道者と言えば、本田弘慈先生である。面白おかしく話しをなさるが、きびしく罪をしめしてくる。罪からの救いのメッセージこそが求められているのである。最近よく言われるのが、会衆は、メッセージから慰めや励まし、癒やしを得ようとしているのに合わせるような説教が語られている。ストレートな、十字架のメッセージしか語られなくなっているとしたら、悲しむべきである。

 

 人間の弱さに同情し、理解を示し、神の慰めを語るメッセージが増えているのは大切であっても、弱さや様々な問題の根源に横たわる罪にまっすぐに目を向けさせるメッセージはより大切ではないだろうか。罪の解決なしに、人間のあらゆる問題の解決はないからである。






 

 2022.10.30



わたしにとどまりなさい

 

 洗礼を受けてからのキリスチャン信仰寿命は、2年8月なのだそうである。古屋安雄の著書の中にそのように記されていた。それを読んで大変に悲しい思いになった。教会は、入り口は広く、出口は狭くあってほしい。それは、すべての牧師の願いでもある。

 

 ヨハネ15章には、ぶどうの木のたとえが記されている。4節に、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では

実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とある。実を結びたいと願うのであれば、できることはただ一つしかない。それは、「わたし(主イエス)にとどまりなさい」以外にはない。

 

 つまり、主に「依(よ)り頼む」ということである。箴言16:20には、「みことばによく通じた者は幸いを見出す。主に拠り頼む者は幸いである。」とある。とどまる者には祝福の道が備えられている。ヨハネ15:7には、「 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







 

 2022.10.23


聖霊のバプテスマ(3)

 

「聖霊のバプテスマ」「聖霊の満たし」の目的は、「キリストのみ姿」に日々、変えられていくことにある。Ⅱコリント3:18には、このように記されている。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿

に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」  Ⅱコリント3:18 と、

 

 きよめられた経験をしました。それは、幸いですが、それが最終目的ではないのです。聖化の始まりです。日々、主を覚え、祈りし賛美を献げ、主のみこころを覚え、主の御足あとを歩みます。そうしながら、主と同じかたちに姿に変えられていきます。

 

 神の救いには目的があります。何を目指しているかです。主と同じかたちになるまでです。

ついには、主が再び来られる日には、主と同じ体をいただくことができます。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




 

 2022.10.16


聖霊のバプテスマ(2)

 

 「聖霊のバプテスマ」は、使徒の働き1章5節に記されている。この箇所では約束ということであったが、現実に聖霊が下ったのは、使徒の働き2章にあるペンテコステの日のできごとである。2章4節では、「すると皆が聖霊に満たされ」とある。「聖霊のバプテスマ」は、「聖霊のみたし」と同じであることがわかる。聖書を見れば、同じ人物が何度も「聖霊のみたし」を受けているのがわかる。「聖霊の満たし」の中でも、一人の個人の最初の体験を、「聖霊のバプテスマ」と言っているのがわかる。

 

 ペンテコステのグループでは、「聖霊のバブテスマ」は、「力」が強調されているようだ。確かに、使徒1:8では、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」とあるので、宣教の働きとの関連で受け止めなくてはならないだろう。しかしながら、私たちは、義認のつぎにある聖化の意味としても、これを受け止めている。よく、「きよめ」と言われる。

 

 関西聖書神学校、日本イエスともに、バックストン、ウィルクスによってもたらされた聖書的きよめを強調し、敬虔な生活へと導くものと受け止めている。2人の英国人の名前がでてきているが、彼らのうちになされた人格的きよめを、大切に受け止めている。内村鑑三は、バックストンを「人類の華」と言っている。「聖霊のバプテスマ」「聖霊の満たし」の目的は、「キリストのみ姿」に日々、変えられていくことにある。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




 

 2022.10.9


聖霊のバプテスマ(1)

 

 わたしたちの教団は、きよめ派である。聖会を大切にするし、牧師も機会あるごとにきよめを語るようにしている。勿論、きよめの体験が大切なのは言うまでもないが、それに続く、きよめに生きるのも大切にしていかなくてはならない。

 

 わたしたちの教会では、信仰告白を取り上げている。それぞれの教団で信仰告白をもっていると思われる。すべての教団や教義について見ているわけではないが、特徴があるに違いない。教団信仰告白においては、聖化の項目に特記すべきだと思っている。

 

 抜き出してみよう。「わたしたちは、キリストの血によって、すべての罪からきよめられ、神のものとされ、聖霊のバプテスマ、その内住による全き支配によって、主のかたちに変えられていきます。」「聖霊のバプテスマ」という言葉が入っているところが、特筆すべきだとおもっている。

 

 新改訳2017では、「聖霊のバプテスマ」が「聖霊によるバプテスマ」になった。元々の意味は、「聖霊によってパプタイズされる」であるから、新改訳2017の訳がよい。(つづく)




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

 2022.9.11


キリストの血の効力 

   

  キリストの血によって、すべての罪からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:7)

すべての罪に対して、聖書か要求してきているのは「 キリストの血」である。私たちができることは、自らの罪を主イエスのみ許に持ってでる以外に手立てはない。

 

 ここで問題となるのは、生まれながらの罪(エペソ2:3)である。「原罪」と言われるもの、肉とも言われる内在の罪である。聖霊はクリスチャンの最大の敵であるこの「一物」を放置するようなことはない。工藤弘雄師は、「大いなる救い・4つの視座から見たクリスチャン・ホーリネス」にあった、強く心に響いた言葉です。

 

パウロは、「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」 (ローマ6:6新生にあっては、罪のゆるしの十字架であったものが、きよめでは、古い人(罪の性質)を滅ぼす十字架として記されています。同:4には、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」これは、「磔殺(たくさつ)」ですね。パウロはこのように述べています「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(ローマ6:2) 

 

 キリストの十字架、血による効力の大きさを思わされた。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)









 

2022.9.11

弱さを考える

 

 収入はかわらないのに、モノの値段が上がっている。1ドルが142円になり、世界的に円が売られている。日本は、貧しい国になっているのがわかる。強者と弱者は、競争社会の中から生まれてきたのだろう。時として、弱者が忘れられたり、切り捨てられることがあってはならない。

 

 パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(Ⅰコリント12・22)と、述べている。体は、それぞれの部分がなくては機能しない。すべて重要である。  からだのそれぞれに価値がある。

 

 パウロは、体(教会)は弱い部分がなくてはならないと、むしろ弱さを強調している。弱い部分があれば、弱さの視点に立って物ごとを見ていけるようになるからである。神の選びについても同じある。「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」(Ⅰコリント1・27)とある。




(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)










 

2022.9.4



視点がかわらなければ

 

 「70年なんて束の間だったね」とは、私たち夫婦が最近よく口にすることばの一つだ。その年令に到達してみて、わかることである。未来志向で物事を見れなくなってきた。過去を振り返るのは、同じような年齢を歩んでおれば、ほぼ似たようなものではないだろうか。

 

 今まで歩んできた中で、得られたものを見出されるならそれを喜ぶことができる。失ったものも多くある。何を得られたか、何を得られなかったかも、ただ自分の視点、尺度で見ていてもあまり意味がないように思えてくる。

 

 ヨシュヤ記23:2-3にはこのようにある。「私は年を重ねて老人になった。あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。 」 

 

 私たちは、神が私たちのために何をなしてくださったか。神の視点から自分を見なくてはならないのである。神の働きが見える。それが大切である



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)








 


2022.8.28



教団信仰告白

 

 私たちの教会では、教団信仰告白を守り始めている。すべてのキリスト教会が信仰告白を持っているわけではないだろう。私ども日本イエス・キリスト教団は、創立してから30年後に信仰告白を制定した。

 

 日本には、7千余りのプロテスタント教会がある。その中には、単立教会があり、その数は増えているようだ。私たちの教団では、指定神学校で学び、少なくても6年後でなければ正教師になることができない。聖書からメッセージを語るわけだが、教団信仰に則ったものでなくてはならない。その信仰は、信仰告白文に表わされている。その意味からも、信仰告白内容を信徒の皆さんと学ぶ意味はある。他教団と較べてみても、大きな違いが見られないだろう。それでいいのだと想う。中には、教団の信仰が色濃くでてきているものがある。その違いをはっきりと受け止めておこう。

 

 教団信仰告白を学び終えて、信徒のみなさんは何を受け止めることになるのだろうか。牧師として興味あるところだ。








 


2022.8.21


オイコス計画

 

 私たちは、全国家庭文書伝道協会(EHC)のオイコス計画に参加させていただくことにした。オイコス計画とは、日本のすべての家庭に最後の一件まで福音を届けるというものである。言わば、福音の種まきと言えばよいのだろうか。

 

 押部谷町全域2200戸のトラクト配布時に、美しくデザインされた教会案内を添えて半年かけて配り終えたいと願っている。私たちは、昨年の12月に2教会が合併したばかりで、地域に向けて教会案内をしたいと願っていた。EHCから案内をいただいたのは、グッド・タイミングであった。

 

 コロナ禍にあって、計画が進められないものがでてきている。トラクト配布は、ノーマスクでも配ることができる。実行あるのみである。祈ってでかけたい。








2022.8.14


成果あった2days

 

 コロナ感染急拡大により、牧師の関わる超教派の集い、教区の集いも中止になった。仕方がないと言ってしまえば、それまでのことである。中止では済ませられない働きというものもある。教区のティーズ・バイブルキャンプがそうであると思っている。10代にとってだけでなく、彼らを送り出す教会にとっても大きな位置づけを持っている。

 

 昨年、一昨年も中止で、今年もとなると10代にとっては、救いの決心のチャンスが失われることになってしまうかもしれない。そこで、中止が決まってから、何とか教会で彼らに集まりができないかという話がでてくるようになり、俄作りではあるが、熱情と信仰、そして祈りをもって準備して、2daysの集まりを、8月11-12日に持ちました。10代が9人集まった。スタッフを入れると計17名になった。かつて10代だった方々が若い時代を振り返って、心を奥底にしまい込んでいたのかもしれない、胸の内を話した。勿論、神がどのようにその苦しみや痛みを恵みに変えてくださったかを話してくださった。

 

 なかなか聞けない証しである。心を開くと10代との距離が縮まる。彼らの心もまた開かれてきた。教会というところは、虚栄で生きていくところではない。ありのまま受け入れてくださる主がおられるので、居心地がいいのである。かれらは、2日間の集まりを通して何を得て帰ったのだろうか。14日のYL、CS、礼拝が楽しみである。








2022.8.7


サタンに背中を見せるな

 

 今年は、合併記念行事として外部ゲストをお招きして集まりを持つことになっている。7月31日は。徳永大師をお招きして。礼拝と午後の2回メーセージをしていただいた。群れの一人びとりは、大きな恵みをいただいた。

 

 いくつか教えられたことがあった。その一つは、「サタンに背中を見せるな」ということだった。先生が神学生時代に、両親に関して大きな問題を抱えていた。神学校を卒業して、教会の働き人として奉仕するのを躊躇(ちゅうちょ)する思いが強くなった。舟木信先生を訪ねて悩みを打ち明けたところ、先生の奥様が、「サタンに背中を向けてはなりません」と、一言話された。その言葉が背中を押した。

 

 日々の生活にあっても、牧会現場にあっても課題がある。前に進めるのかとの思いになることがある。「私たちがサタンに乗じられないように」(Ⅱコリント2・11)とあるとおりである。「サタンに背中を見せるな」が心に深くとどまった。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)








2022.7.24


ペースメーカー

 

 心不全になった92歳の母に、ペースメーカーを埋め込み手術をしてもらった。技術進歩によって、現在では大変に小さく軽い装置になっているのに驚いた。寝ている間に不整脈がでているらしい。90年も一時も休まず動き続けている心臓である。補助装置のお陰で、心臓が保てるのは感謝である。

 

 リハビリ専門の病院に転院した。そこの医者から、「大腿部骨折のリハビリだけれども、今は心不全があるのだから安静が求められている。リハビリがどれだけできるかはわからない。」 母はこれから長く生きることはできないだろう。それでも生きていてほしいとの思いがある。伝道者の書12章1-7節を何度も読み返す。「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」(5)    確かにそうだけれども、母は救いの信仰も持っている。主の身元に行くまで、母の守りを祈りたい



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)








2022.7.17

合わせる

 

 私たちは、さまざまな人と人との結びつきの中で生きている。相手と歩調を合わせるのは簡単ではないのは、だれもが経験ずみである。このところ、家内と合間を見つけてオカリナ2重奏を練習しています。日ごろから歌い慣れている新聖歌から10曲くらいを選んで吹く楽しみを味わっている。

 

 最初から上手くいったわけではない。家内は息が弱い、逆に私は強い。だからキレイな2重奏にはならない。同じメロディーを吹いても耳障りな音になる。毎日の練習の成果は、少しずつでてくるようになった。家内は息を強く、私は弱く吹く努力が実りはじめている。おそらく、一つの家庭を築いていく上でも、夫婦の歩調があっているわけではない。意識して歩み寄らない限りは、溝はうまらない。

 

 聖書に、「みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。」(Ⅰペテロ3:8)   とある。まさに、これが理想とするところである。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







2022.7.10


92歳母の手術

 

 サービス付き賃貸住宅で生活していた母が、心不全のようだと施設の方から連絡を受けた。その母が、その日の夜に転けたのか大腿部骨折になった。次の日の朝に救急車で総合病院に運ばれた。これからのことを考えれば、手術しないわけにはいかない。90歳を過ぎる母に手術は無理との思いが働いた。大腿部骨折には、人工骨挿入手術。心不全には、ペースメーカー手術を要する。踏み切った。

 

 大腿部骨折の手術は、全身麻酔になった。麻酔医からは、術後に酸素マスクが外せなくなるかもしれないと言われた。教会のみなさんが我がことのように祈ってくれた。大変に力強かったが、手術中は緊張していたのだと思う。牧師館にもどってほっとした。

 

 医療が格段に進歩している。今までは助からなかった人が、生かされている。私は、主にある者として、生命は主の御手の中にあると信じている。いのちの重さを改めて思わされている、今日このごろである。







2022.7.3

聖書通読は新しい発見の連続

 

 聖書通読をしていると、新しい発見がある。詩篇139篇を新改訳2017で読んでいて13節に目が止まった。「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で組み立てられた方です。」とある。その「内臓」が、直訳では「腎臓」であると知った。「腎臓」に疾患がある私にとっては、日々、腎臓を意識しながら食生活に注意しているのだから、興味深く思えた次第である。

 

 旧約聖書では、何度か腎臓についての記述がある。出エジプト29:13「その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪を取り出し、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。」にあるとおり、動物の犠牲としてでてくるケースが多い。なぜに、「腎臓」が犠牲の一部として捧げものになるのかはわからない。

 

 通読をとおして、新たな発見できるのは大きな喜びである。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)










2022.6.26

オカリナの楽しみ

 

 このところ、ほぼ毎日のようにオカリナを握っている。もっぱら楽譜は、新聖歌である。メロディーであれば、8割は吹けるようになってきた。一日、少しずつでも練習すれば、遅々たる前進であっても、モノになっていく。

 

 オカリナを始めるようになって、楽譜が見えてくるようになった。今まで、歌ってきた賛美歌が、正しく歌えているかもわかるようになってきた。さまざまな曲を、楽譜を見ながら聞けるのは喜びである。

 

 オカリナは吹けば音が出るが、人に聞いてもらえる音が出るまでには時間を要する。その意味では、やさしい楽器ではないかもしれない。これからの高和オカリナclubをどのように指導していこうか。祈りの中にある。何よりも、楽しんでもらえればと願っている







2022.6.19

父の日によせて

 

 母の日が、教会から始まったことはよく知られている。6月の第3日曜日は、父の日である。これもまた、教会から始まったものである。ことの始まりは、1910年6月19日 アメリカ、ワシントン州スポーケンであった。市内にあるいくつかのプロテスタント教会が、父親をテーマに説教があり、父親たちに感謝の思いを込めてバラの花が送られた。

 

 「父の日」を呼びかけたのは、ソノラ・スマート・ドットさん。28歳の女性である。父はウィリアム、母はエレンで、二人の間には6人の子どもが生まれた。その6番目の出産が原因で亡くなった。父親は、6人の子どもたちを育てなくてはならなかった。それを助けたのは、6人中の最初に誕生したソノラさんだった。下の5人はすべて男の子だったという。

 

 ソノラさんの教会では、1909年に「母の日」の記念礼拝が行われた。その時に彼女は、「父の日」もあるべきだと考えた。教会関係者にその思いを訴えて、祝われるようになった。父への感謝を表したくても、すでに父は召されている。その思いを、明日の父の日礼拝に表せればと願っている。









2022.6.12

合併後に初の洗礼式

 

 6月5日は、ペンテコステ礼拝でした。この日、合併後に初の受洗者が2名与えられました。教会の聖礼典は、洗礼式と聖餐式だけである。私たちの教会では、聖餐式はほぼ第4聖日に行われる。洗礼式は、受洗希望者が備えられ、洗礼準備会をして晴れて式を行うことになる。

 

 洗礼式とは、どのような式なのだろう。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(ローマ6章3-4節)新改訳2017では、「洗礼」という言葉が用いられなくなって、「バプテスマ」となった。「バプテスマ」とは、「キリストとともに葬られ」る式である。古い自分が処分せられて、「新しいいのちに歩む」(同4節)ことができるのである。

 

 洗礼の意味を聖書に求めるなら、重く深いものがあります。それだけに、洗礼式は、会衆が喜びに溢れます。それぞれが初心に戻るときでもあります。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







2022.6.5

主われを愛す

 

 日本で最初の賛美歌は、「主われを愛す」(新聖歌505番)である。1872年に第一回在日宣教師会議が開かれた。そこで、ジュリア・ニルソン・クロスビーが、Jesus loves me,this I knowの翻訳が発表された。今から、150年前の出来事である。「エスワレヲ愛シマス、サウ聖書申シマス、彼レニ子供中、信スレハ属ス、ハイエス愛ス、ハイエス愛ス、サウ聖書申ス」と訳されていた。

 

 幼き日に、日曜学校(教会学校・CS)でよく歌ってきた。訳詞は、少しずつ改変されてきて1903年に、現在、歌っているものになったと言われている。

  主われを愛す

  主しゅわれを愛す、主は強ければ、 

  我(われ)弱くとも、恐れはあらじ。

  我(わ)が主(しゅ)イェス、我が主イェス、 

  我が主イェス、我(われ)を愛(あい)す。

 

 この「主われを愛す」が、日曜学校に通っていた当時はアメリカ生まれの賛美歌であるのき知らなかった。どこで生まれた賛美であってもいいのであるが、日本人賛美歌作家の手によるものがもっともっと生み出されるのを願っている。2012年に誕生した現代福音賛美歌を手にして思うのは、圧倒的に海外の賛美歌作家を翻訳したものである。「主われを愛す」から150年。新しい賛美歌を生み出す責任が、日本の教会にあると思っている。







2022.5.29

隠れた奉仕


 平日の牧師の働きは、信徒のみなさんにはわからない面が多いのではないだろうか。どこに訪問に行ったかも明らかにしないこともある。また、信徒の中には、「今している奉仕について、週報等で明かさないでください」と、言われることがある。

 「あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:4)   主イエスの教えとして聖書に記されているとおりである。

 牧師が肝に銘じておかなくてはならないこと。見える奉仕は誰にでも大切なのはわかる。説教、司会、奏楽、受付や会場は、奉仕者名が週報に知らされているくらいだから。言うまでもないくらいだ。それと共に、教会というところは、隠れた奉仕によって支えられているということである。牧師として、心に止めているかである。6月5日には、2名が洗礼予定である。それは、主の恵みによるのだが、私たちも隠れたところで祈ってきた結果でもあるのだ。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)






2022.5.22

賛美の力 音楽の力

 

 日ごろは、YouTubeやネットラジオで音楽を楽しんでいる。疲れた時は、チェロやギターのソロの演奏を聞くことが多い。オーケストラなど多くの楽器が重なったものは敬遠がちである。人それぞれ、音楽の好みがあっていいと思う。特に、クリスチャンにとって賛美することは生活の一部になっている。

 

 高和オカリナclubをスタートしたのは2017年である。それから5年の歳月が流れるが、この2年はコロナ禍のために集まる機会が失われた。4月から集まりを再開した。この5月で2回目が終わった。共に集まり楽器演奏を楽しむことによって、何か活気が戻ってきたように感じている。

 

 人間は、音楽が好きである。歌うことも、聞くことも、演奏することもである。生活の中に音楽を取り入れると、活き活きしてくる。このところ毎日のように夫婦でオカリナを楽しんでいる。新聖歌を開き二重奏をしている。賛美の力、音楽の力を大切にしていきたい。








2022.5.15


ベラカの谷

 

 押部谷チャペルのすぐ横には、明石川の支流の福住川が流れている。大雨が降ると一挙に水嵩がます。日ごろは、チョロチョロと流れるに留まる。牧師館の2階から上流側をみると、なかなかの景観である。押部谷ムーミン谷と言われていたと聞いている。聖書には、ベラカの谷と呼ばれるようになった。歴代誌第二20:26に記されている。「四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、そこで主をほめたたえた。それゆえ、人々はその場所の名をベラカの谷(祝福の谷)と呼んで、今日に至っている。」(Ⅱ歴代誌20:26)

 

 今、ロシアによるウクライナ侵攻に、世界中が振り回されている。南ユダ王国第4代のヨシャファテ王の時代に、アラムから大軍が攻めてこようとしていた。彼は、神の前に祈った。「攻めて来るこの大群に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません」(13)   神の声があった。「これはあなたがたの戦いでなく、神の戦いである」(16)   攻め上ったかれらは、戦場で主を大声で賛美した。彼らは、何と同士打ちを始めた。敵は、滅ぼし尽くされた。彼らが戦場に残していったものは、分捕り品となった。

それを持ち運ぶのに、3日を要するほどであった。

 

 ウクライナもそのようなことが起こらないのだろうか。「ベラカ」とは、祝福の意味である。祈れば道が開けるのではないか。私たちも、日々の歩みの中で苦闘することがある。祈り聞かれる主は、道を開き、祝福へと変えてくださると信じたい。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







2022.5.8

塩屋聖会も新しい流れが

 第87回塩屋聖会は、2022年5月3日から5日までの期間行われた。3日間ともに午前と午後の2回で、計6回の集まりであった。新型コロナのことがあり、対面とYouTubeで行われた。私たち夫婦は、YouTubeで参加することにした。

 3日目の午前と午後は、青年聖会として開かれた。ソングリーダーが立てられて、次々と若い世代に沿うワーシップ・ソングが、キーボード、ギター、ドラムのバンド演奏によって行われた。塩屋聖会は、歴史がある聖会である。私自身も、聖会で献身の召しを受けてきたし、司会もさせていただいた。歴史があるというのは、容易に変えられないものである。あえて、3日目は青年に合うプログラムにイメージ・チェンジしてきた。メッセージは、献身を求める内容であった。

 聖会が変わってくると、それぞれの教会の賛美のあり方にも影響が大きいと思われる。本気で、青年を捉える、捉えられる教会の姿勢をと願わされている。






2022.5.1

小坂忠 師 召される

 4月29日、牧師としてシンガーソングライターとして日本のキリスト教に大きな足跡を残された小坂忠師が73歳の人生を閉じられました。5年前からガンを患っておられました。私が神学校に行くことになったのは、1976年でした。その年に、娘が重度の火傷から奇跡的に回復したことを機に、クリスチャンとなりました。ミクタム・レコードを設立したのは、1978年でした。


 神学校を卒業したのが1980年でした。名前が、少しずつでも知られるようになりました。
青垣キャンプ場での中高生キャンプでは、彼による曲が紹介され始めるようになりました。
特に、岩渕まことさんと2人で、奉仕されるようになりました。私自身は硬派だったこともあって、礼拝でミクタムで歌われているものを、礼拝で選ぶことはしませんでした。

 時の流れでしょうか。2001年に岩渕まことさんによる GOD BLESS  YOUが新聖歌に収められたことが起点となったこと。オカリナでワーシップソングを演奏するようになって、垣根が取っ払われました。いまでは、ワーシップ・ソングも新聖歌も、歌詞の味わいを大切にしながら楽しんでいます。





2022.4.24

主イエス・キリストの交わり

 

 教会は、交わりを大切と考えている。使徒信条では、「聖徒の交わり」という条文がある。コリント人への手紙第一1章9節には、「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」とある。

 

 ここでの「神に召されて」とは、救われるという意味である。「召す」は英語では、「calling」である。「呼び出し」の意味であることに気がつく。今や世界には、80億人に近づいてきている。その世界中から「呼び出して」、救いの中に招き入れてくださるのである。

 

 その目的は、「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れ」るためであった。「交わり」とは、双方向の関係である。愛す、愛される関係と言えばよいのだろうか。聖書の神は、人格神である。私たちの祈りを聞かれる方である。神はことばを持って御心をお示しになられる。主イエスとの交わりを通して、私たちの信仰がより高くに引き上げられるに違いない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







2022.4.17

 


フェイク・ニュース

 

 ロシアが、ウクライナ侵攻して残虐行為を行っている。ウクライナのブチャでも、市民がロシア兵による残虐行為によって多くの命を失った。ロシアのラブロフ外相は、「欧米諸国によるフェイクニュースだ」と主張している。ロシア側は、国際法に触れる戦争行為に対して、フェイクニュースと返答するのが、常套手段のようなのだ。

 

 主イエスがよみがえって、遺体が収められていた墓が空になった。番兵は、墓で起こったことを祭司長らに伝えた。彼らは番兵に対して、「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。」(マタイ28:13) 番兵には金まで握らせてまでして、 正しい出来事が伝わらずに、事実は曲げられたのである。結果、「この話は今日までユダヤ人の間に広まっている」(同:15)とある。

 

 祭司長側は、現在的に言い換えるとすると、「イエスの遺体は、弟子たちが墓から盗み出したのだ。イエスの復活は、弟子たちの作り話だ。フェイクニュースだ」となる。いつの時代も事実を曲げようとする者がいる。正しい教えが正しく伝わらないのは、取り返しがつかないほどの損失が生じることになるかもしれない。イースターの説教を準備しながら考えさせられた。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




  2022.4.10



ナツメ椰子の枝

 

 本日は、棕櫚の聖日である。口語訳聖書では、「しゅろ」とあったものが、新改訳聖書2017では、「なつめ椰子の枝」(ヨハネ12:13)と訳されている。この椰子の葉は、大きいもので2メートルの大きさがある。主イエスが、ロバの子にまたがってエルサレム入城したときには、一面を葉で敷き詰めたのであろう。

 

 ナツメは、デーツと言われる。その実は、お好み焼きソースの原材料として欠かせないものである。イスラエルを始めとして、この地域はナツメの産地である。中東戦争時には、デーツの輸入ができなかったために、お好み焼きソースの生産がストップしたそうである。

 

 主が、エルサレムに入られたといううわさが広まり、人々はエルサレム入城の準備を急いだ。急ぎ準備ともなると、代用品でもと思うかもしれない。しかし、ナツメ椰子の枝を意識して準備したのである。調べてみると理由があるのがわかった。

 

 この〝しゅろ”は、旧約聖書の創世記にでてくる「いのちの木」をあらわす植物なのです。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、その園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」(創世記2・10)しゅろの木は、エデンの園にある「いのちの木」であり、同時に〝神の祝福”のシンボルでもありました。(月刊いのちのことば 2013年3月号 杉本智俊) 



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




 

 2022.4.3


キリストの流された血の効力

 

 70歳近くなると、医者と縁が切れなくなってくる。毎回、同じクスリ(薬)が処方される。クスリを反対に読むとリスクになる。本来は、クスリがいらない生活でありたいと願っている。飲み忘れのクスリがある。食品には、賞味期限があるがクスリにもあるのだろう。

 

  今、レント(受難節)の中にある。キリストが十字架上で流された血の意味を、よく考えて見なければならない。エペソ1:7には、「このキリストにあって、私たちはその血による贖(あがな)い、背きの罪の赦しを受けています。」とある。私たちは、21世紀に生きている。キリストの十字架は、2千年も前の出来事である。それでも血の効力は、昔も今も変わるところがない。キリストの血の効力は、保たれているのである。

 

 科学技術は、凄(すさ)まじい勢いで進歩している。多くの牧師のデスクにはパソコンがあって、キーボードを叩きながら説教準備をしている。それがふつうの光景になっている。しかし、聖書の教えは変わらない。昔も今も、みことばを解き明かして説教することに変わりはない。もちろん、主イエスの流された血の効力も、変わりはないのである。 



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




 

2022.3.27


一書の人

 

 ジョン・ウェスレーは、「一書の人」と言われている。私たちは、多くのクリスチャンが用いられた秘訣を、さまざまな読み物を通して知ることができる。間違いなく、ウェスレーが主に用いられた秘訣は、聖書に生き、聖書を解き明かしたところにある。

 

 netで、「一書の人恐れよ」という言葉がでてくる。誰の言葉かはわからない。たった一冊の本が、人生を変える力、時代を動かす力を持っているというのである。時代や社会が大きく変わってきている。そうしたものに容易に揺り動かされては、自分を見失うことになってしまうかもしれない。聖書という「一書」を、クリスチャンは座右の書としたい。

 

 「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」(Ⅱテモテ3:15)   聖書は、救いの書である。そのような救いの本は、聖書以外にはないと、確信を持って言える。永遠のベスト・セラー、聖書を生活の中で読もうではないか。「一書の人」と、言われるようになりたいものである


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

2022.3.20

 

善き力にわれ囲まれ

 

 3月13日に、高和教会と押部谷教会の合併式を船田献一教団委員長の司式によって行いました。プログラムの立案は牧師が担当しました。特別賛美を入れたいと思いました。3日ほど祈って考えて、「善き力にわれ囲まれ」(新生賛美歌73番)を、ギター伴奏と、女性2人のボーカルに託すことにしました。

 

 さて、「善き力にわれ囲まれ」は、ボンフェッファーが1944年に獄中から婚約者に送った手紙に曲を付けたものです。福音派の牧師であった彼は、ナチス・ドイツに抵抗したことにより、1945年4月9日に絞首刑になります。当時の状況を頭に置きながら、歌詞を味わってみると、意味が掴(つか)み取れます。今は、ロシアによるウクライナ侵攻により、建物や公共施設が攻撃を受けています。多くの人々が、ウクライナの悲惨な状況には心を痛めています。

 

 「善き力にわれ囲まれ」の歌詞の繰り返し部分には、「善き力に守られつつ 来るべき時を待とう 夜も朝もいつも神は われらと共にいます。」に慰められます。見えざる神の御手を覚え、どのような状況下に置かれても、「神は われらと共にいます。」と。見えざる御手(みて)を、信仰の目を通して見ることができるのは、なんと幸いなことでしょうか




 


 

2022.3.13

 

ウクライナに平和を

 

 1945年に第2次世界大戦が終わってから、この日本において戦争がない。70年余り平和が保たれている。感謝の他ない。今、核兵器を持つようになった。核が戦争の抑止力になるとの考えるからである。実際に核を使用すると、多くの人命を失うばかりか、核汚染が各地に広がり住めなくなる。

 

 ロシアは、ウクライナに戦争を仕掛けた。ロシアのプーチン大統領が戦争をする理由がさっぱりわからない。世界の大半の国が、プーチンの暴挙と捉(とら)えている。私個人は、戦争について真剣に考えてこなかった。戦争は、失うものが多すぎるからである。ウクライナの男たちは、自国を守るために銃を握り戦わざるを得ない。

 

 一日も早く戦争が終結するように祈っている。西側先進国はロシアに対して経済的締め付けを行なって、困窮(こんきゅう)させようとしている。それ以外に方法が見えてこない。私たちクリスチャンは、祈りをもって神の助けを求めている。「万軍の神 主よ 私の祈りを聞いてください。 ヤコブの神よ 耳を傾けてください。」(詩篇84:8)  ウクライナのために祈りを忘れてはならない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



 

2022.3.6


教会音楽の歴史

 

 教会生活にあって、礼拝の中で賛美を献げるのは大きな喜びです。「あなたの愛唄歌は」と、お聞きすることがあります。クリスチャンであれば、賛美歌や新聖歌の中から1つ、2つの曲を示してくれます。日常生活の中でも、歌っておられるでしょう。

 

 教会音楽の歴史となりますと、今から3千年前まで遡(さかのぼ)ります。竪琴の名手であったダビデは、王となり国が安定したこともあり、神の箱をエルサレムに移して、そこに神殿を立てて四六時中、賛美が神に献げられるようにできればと願いました。願ったようになりました。そのことは、歴代誌Ⅰの25章に詳しく記されています。

 

 私たちは、礼拝の中で招詞(しょうし)には、詩篇のみことばが取り上げられます。ダビデの歌が中心にまとめ上げられています。詩篇は、エズラが編纂(へんさん)したと言われます。当時、神殿での礼拝に、詩篇が用いられていたのがわかります。礼拝と賛美の関係を知ろうと願うなら、旧約聖書のダビデについて記されているところから、学ばれることをオススメします。




 

2022.2.27


平和を祈ろう

 

 エルサレムは、「平和の町」の意味があります。ウクライナにロシアが侵攻している。世界中からこの度のロシア侵攻に対して避難の声が上がっている。日本に住んでいると、第二次世界大戦以降、戦争の経験がありません。私は、戦争を知らない世代である。平和があたりまえと思っていたのが、そうでないことが思い知らされた。

 

 「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」 (Ⅱコリント13:11) 聖書の神を、パウロは「愛と平和の神」と記している。ペテロは、ローマ皇帝ネロのもとにあって、迫害を受けていた当時のクリスチャンに向けて、「悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。」(1ペテロ3:11)という。

 

 「平和、平和」と言うだけで平和になれるものではない。「平和を求め、それを追え。」は、強い表現である。一人ひとりが、真剣に平和を追い求めなくてはならない。まずは、平和のために祈ることから始めようと願わされている。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

2022.2.20

キリスト信仰

 

 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)   366日元気が出る聖書のことば(岩本遠億著) 3月18日「信仰はキリストから来る」の中で、次のようにしるしている。「信仰」とはイエス・キリストご自身が造り、完成したものであると。全人類の罪を贖う十字架の苦しみによって造られ、復活によって完成したキリストの救いの技そのものを「信仰」と呼ぶのだと。

 

 クリスチャンにとっての信仰は、キリストの十字架と復活に直結している。その域を踏み外してはならない。「信仰がわからなくなった」とか、「多分、信じていると思う」といったあやふやなものであってほしくない。人間の主体性に基盤がある信仰は、さまざまな状況下にあって揺れ動くことになる。

 

 確かに私たちは弱い存在であるが、恵みがわたしたちの信仰を支えてくれているのである。

三度に渡って主イエスを知らないと言ったのはペテロだった。そのペテロに対して主イエスは、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」(ルカ22:23)とある。感謝しようではないか。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.2.13

口にすべきは感謝

 

   ある教会に電話したときのことだった。電話口にでた女性が、「お電話、感謝します」と言って話された。もう30年も前の話なのですが、いまでも印象深く覚えている。このようなパウロのことばを思い起した。「口にすべきは感謝の言葉です」(エペソ5:4)

 

 最近は、LINEでのやり取りが増えてきている。「ありがとうございます」とか、「感謝します」を、よく用いるようになった。人間関係の潤滑油のようにも思える。「感謝します」と言われて、腹を立てる人は滅多にいないのではないか。

 

 人への感謝と共に、神への感謝はどうだろうか。パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。」と、記している。(Ⅰコリント1:4)   神にも人にも感謝して生きるその人こそ、神の願われる人の姿ではないだろうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.2.06

慰めに満ちた神


 個人的に事あるごとに思い起こす聖句がある。コリント人の手紙第二1章3節もその一つである。「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。」と、ある。

 この手紙には、パウロの逆境体験が記されている。同8節に、「アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。 」と、記している。アジアで起こった出来事の詳細は、聖書中どこにも記録として残されてはいない。

 3節の「慰めに満ちた神」は、パウロ自らの体験から確信しているところである。神から慰めを受けるとは、なんの苦しみも消え去るはずだと受けとめている人がいるかもしれない。そうではない。苦しみに対処するための、強さ、励まし、希望を受けることができる。あなたは、神からの慰めをいただいておられるだろうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.30

大事には一致

 

「大事には一致を、小事には自由を、すべてのことに愛を」
 ネットをあちらこちら見ておりましたときに、上記の言葉に出会いました。これは17世紀、ドイツ「敬虔(けいけん)派」の父である神学者フィリップ・ヤコブ・シュペーナーの言葉とありました。大変に心惹かれるものがありました。私たち神戸西聖愛教会が、統合合併を2021年3月に決めました。大きな決断でした。幸いにも、2教会の教会総会におきまして、全会一致で決めることができました。

 

 何が大事か。それをしっかりと踏まえなくてはなりません。何事にも一致を求めると、動きが取れなくなるでしょう。シュペーナーは、「小事には自由を、」と述べています。大枠で一致すれば、みんながそれぞれの裁量で動けるようにするのが大切です。

 

 最後は、「すべてのことに愛を」とあります。教会に限らず、家庭、学校、福祉、地域社会においても、愛なくばすべては無に等しくなってしまいます。



2022.1.23

この世の知恵と神の知恵

 

 

 コリント人への手紙第一の1章から3章を読んてみますと、何と27回も「知恵」がでてきます。パウロは、この世の知恵と神の知恵について述べているのがわかります。この世の知恵者が集まって、叡智(えいち)を結集してみてもイエス・キリストの救いはわからないのです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても…」(1:18)   クリスチャンでない人に、救いを話しても、バカげた話しとしてしか聞こえません。

 

 神の福音は、すべての人に向けて明らかにされていますが、この世のものではありません。イエス・キリストが全人類の罪の贖(あがな)いのために、身代わりとなられました。その主イエスを信じるだけで救われます。その救いの方法は、神の知恵によるものです。ですから、この世の知恵ではわかりません。

 

 なぜでしょう。1:27にこうあります。「知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」と。この世ではおろかと思われる人、弱い者が、救いに入れられて喜びと希望に満ち溢れた証しを前に、信じれなかった愚かさに気がつき、恥じ入る人たちがいるというわけです。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.16

72人の派遣

 

 ルカの福音書9章には、12人の弟子たちの派遣がでてきます。10章には72人の弟子たちの派遣がでてきます。2人を一組にして遣わすのです。10章17節から20節には、その72人が帰ってきて主イエスに報告します。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもたちでさえ私たちに服従します。」(17)  その報告は、喜びに満ちたものでした。

 

 喜ぶ彼らを前にして、20節、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と、言われました。どうしたら、「名が天に書き記され」るのでしょうか。イエスがわがキリストであると信じれば記されます。そのことこそが、一番の喜びとしなくてはならないのです。

 

 実際に奉仕しながら学んでいくことが多くあります。経験を踏まえなければわからないのです。時々の指導が、役立つものになります。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.9

神を愛する

 

 昨年の1月、信徒のみなさんに一文字抱負を記していただきました。「愛」という字を記しておられた方が、4人おられました。その全員が、女性でした。「愛」の漢字の作りは、「心」と「受」が合成されているのがわかります。愛は、心で受けるものです。

 

 聖書の神は、愛なる神です。Ⅰヨハネ4:8には、「神は愛だからです」とあります。愛は、愛し愛されでなくてはなりません。私たちは、神を愛しているでしょうか。その愛は、半端な愛であってはならないのです。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」(マタイ22:37)と、あるからです。「尽くし」が、3度もでてきます。

 

 「神は愛だからです」からもわかるように、聖書の神は人格神であるのがわかります。改めて、「神を愛する」の意味を霊想してみてはいかがでしょうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.2

 

みことばを受け取る

 

 心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばには、あなたがたのたましいを救うことができます。(ヤコブ1・21) 

 みことばを味わっていますと、うちに深く語りかけてきてくださっているのに気づく時があります。そのみことばを、自らのものとして受け取るときに、人を救い、慰め励まし助け、変える力をも持ちます。

 

 この一年、日々にみことばに接する中で、一つでも二つでも何度も反芻(はんすう)してみてください。礼拝には説教要旨を準備しています。Zoomを併用する時代になりました。少し前までは簡単に記していましたが、より説教に近いものにしてどのような条件下でも受け止めやすいものにしています。

 

 教えられたことを、短くてもよろしいのでノートに書いて置かれるのがいいと思います。情報が溢れるほど流される現在ですが、みことばこそが人を生かすということを忘れないでいただきたいのです。恵みが溢れ祝される一年となりますように。

 

 

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)