2024.6.19

 

アバ・父よ

 

 主イエスは、ゲッセマネの祈りの中で父なる神を「アバ、父よ」と呼んでいる。これは、マルコの福音書の中にだけでてくる。ゲッセマネの祈りは、主イエスが十字架にお架かりになる直前できごとである。

 

 その時の状況は大変に主苦しいものであった。「イエスは深く悩み、もだえ始め、………『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです』」(マルコ14:33〜34)とある。そんな祈りの中で、父なる神への呼びかけが、「アバ、父よ」であったのは中止に値する。これは、幼児語だと言われている。「天のおちうちゃん」の意味なのだそうである。主は、祈りのときには、日ごろから父に甘えるかのような呼びかけをしていたのであろうか。この時だけであったのか。

 

 さて、この祈りの目的は、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」(36)というものだった。これに対してみ父からの応答はなかったようだ。十字架こそが、主に託された使命だった。この祈りの後に立ち上がられた主は、「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。 」(14:41)と言われた。主が世に来られたのは、「罪人を招いて悔い改めさせるためです。多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。」(マルコ10:45)とある。

 

 さて、私たちは、「天のお父さま」と祈っているだろうか。「アバ、父よ」とは言わないだろう。「アバ、父よ」には、愛のあふれる父親の姿を思い浮かべるのは私だけであろうか。









聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)















2024.6.9

 

父の日によせて

 

 母の日が、教会から始まったことはよく知られている。次週、6月の第3日曜日は、父の日である。これもまた、教会から始まったものである。ことの始まりは、1910年6月19日 アメリカ、ワシントン州スポーケンであった。市内にあるいくつかのプロテスタン教会が、父親をテーマに説教があり、父親たちに感謝の思いを込めてバラの花が送られた。

 

 「父の日」を呼びかけたのは、ソノラ・スマート・ドットさん。28歳の女性である。父はウィリアム、母はエレンで、二人の間には6人の子どもが生まれた。その6番目の出産が原因で亡くなった。父親は、6人の子どもたちを育てなくてはならなかった。それを助けたのは、6人中の最初に誕生したソノラさんだった。下の5人はすべて男の子だったという。

 

 ソノラさんの教会では、1909年に「母の日」の記念礼拝が行われた。その時に彼女は、「父の日」もあるべきだと考えた。教会関係者にその思いを訴えて、祝われるようになった。父への感謝を表したくても、すでに父は召されている。その思いを、明日の父の日礼拝に表せればと願っている。












2024.6.2

 

洗礼準備会  

 

受洗希望者が現れた。牧師の私は、洗礼準備会を行うことにした。祈り備えして臨んだ。一方的に話することはしないで、聖書のことばと質問を記したプリントを準備し、自分で答えを見つけて書き入れてもらう方法にした。

 最初に、「イエス・キリストは、神ですか人ですか」と、質問して答えをみことばから見つけてもらうことから始めた。簡単なはずであるが、考え込む人がいるかもしれない。答えは、「イエスは神であり、人である」と、書いてあればよいわけである。

 私も自分でプリントにそのように書きこんだ。ふと一つのみことばを思い起こした。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)である。主イエスの地上での歩みをとおして、話されたことや成された一つ一つは、神がどのようなお方かを示すものである。そのことも伝えなくてはと思わされた。  すべての信徒にも、基本から学んでいただく意味が充分にあると思わされた。






聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)











2024.5.19

 

口にすべきは感謝

 

   一人の信徒の方が、公民館でアドラーという心理学について受講する機会があったそうである。「感謝を何度も受け取ることによってのみ、人間は自律的に成長していく勇気を獲得することができる」と、アドラーは言っているそうだ。感謝を口にするのはクリスチャンだけかと思っていたが、感謝の大切さな気づいて心理学に応用しているようである。ある教会に電話したときのことだった。電話口にでた女性が、「お電話、感謝します」と言っていた。30年経た今でも印象深く覚えているのだから、よほど心に残っているのだろう。このようなパウロのことばを思い起した。「口にすべきは感謝の言葉です」(エペソ5:4)

 

 最近は、Lineでのやり取りが増えてきている。「ありがとうございます」とか、「感謝します」を、よく用いるようになった。人間関係の潤滑油のようにも思える。「感謝します」と言われて、腹を立てる人は滅多にいないのではないか。

 

 人への感謝と共に、神への感謝はどうだろうか。パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。」と、記している。(Ⅰコリント1:4)   神にも人にも感謝して生きるその人こそ、神の願われる人の姿ではないだろうか。







聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)











2024.5.5

 

塩屋聖会も新しい流れが

 

 第89回塩屋聖会は、2024年5月3日、4日、6日までの期間行われています。3日間ともに午前と午後の2回で、計6回の集まりです。対面とyoutubeを用いて行われていますので、私たち夫婦は、youtubeで参加しています。

 

 2日目の午前と午後は、青年聖会として開かれた。ソングリーダーが立てられて、次々と若い世代に沿うワーシップ・ソングが、キーボード、ギター、ドラムのバンド演奏によって行われました。塩屋聖会は、歴史がある聖会です。私自身も、聖会で献身の召しを受けてきたし、聖会の司会もさせていただいた。歴史があるというのは、容易に変えられないものです。あえて、2日目は青年に合うプログラムにイメージ・チェンジしてきていました。

 

 聖会が変わってくると、それぞれの教会の賛美のあり方にも影響が大きいと思われます。本気で、青年を捉える、捉えられる教会の姿勢をと、願わされています。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)












2024.4.28

燃える

 

 復活された主イエスが自らを隠して、二人の弟子たちと行動を共にされた。

11キロの距離だから3時間くらいだろうか。

ルカの福音書24章にあるエマオ途上の出来事である。

 

 他の弟子たちも含めて主イエスの復活が信じられない。

だからといって、復活されてすぐに自らを彼らにお示しにはならなかった。

 

 どうされたのだろう。

「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 」(27) 

結果、二人の弟子たちの心に変化が生じた。

二人は話し合った。

「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(32)   

聖書が説き明かされれば、燃えるのである。

みことばが正しく説き明かされるように祈ろうではないか。







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2024.4.6

 

主イエス・キリストの交わり

 

 教会は、交わりを大切と考えている。使徒信条では、「聖徒の交わり」という条文がでてくる。コリント人への手紙第一1章9節には、「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」とある。

 

 ここでの「神に召されて」とは、救われる意味である。「召す」は英語では、「calling」である。「呼び出し」の意味であることに気がつく。今や世界には、80億人に近づいてきている。その世界中から「呼び出して」、救いの中に招き入れてくださるのである。

 

 その目的は、「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れ」るためであった。「交わり」とは、双方向の関係である。愛す、愛される関係と言えばよいのだろうか。聖書の神は、人格神である。私たちの祈りを聞かれる方である。神はことばを持って御心をお示しになられる。主イエスとの交わりを通して、私たちの信仰がより高くに引き上げられるに違いない。







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