2024.7.21


闇にとどまる必要はない


 「一寸先は闇」とは、一寸(約3cm)先が真っ暗闇で何も見えないように、これから先どんな運命が待ち受けているのか、まるで予測がつかないことのたとえです。今年の元旦に能登半島地震が起こりました。思いもかけない出来事でした。7月現在も復興が思うようには進んでいないようです。

 今月の19日も大きなニュースが飛び込んできました。Windowsが入っているコンピューターに問題が発生し、ブルースクリーン(BSoD)エラーが発生し、クラッシュしていて、空港などの業務に支障が起きました。「一寸先は闇」とは、このような出来事をいうのです。

 さて、私たちは今の暗き世を歩く秘訣を心得ているでしょうか。この世に起こる出来事は、私たちと無関係というわけにはいきません。影響をもろに受ける場合もあります。しかし、クリスチャンの私たちは、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」(ヨハネ12:46)と、約束してくださっています。世の中は、ますます暗闇が深くなっていくかもしれません。信じる者には、闇はとどまらない。言葉では、このことは説明はできません。しかし、信じる者の中に「光」なる主は来てくださったことにより、心は平安に満たされるのです。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)













2024.7.14


お札のクリスチャン

   新しいデザインのお札が登場しました。みなさんは、手にしましたか。私はまだ手にしたことはありません。買い物をして1万円を差出しました。お釣りに新札を期待したのですがダメでした。それはどうでもいいことなのです。日本のお札には、よくクリスチャンが登場します。今まで使ってきた千円札の肖像は、野口英世です。福島県会津の出身で、会津若松にある教会の信徒でした。新渡戸稲造は、同志社大学の創立者です。彼も、クリスチャンでした。

 この度の新5千円札の肖像は津田梅子です。彼女はクリスチャンです。そんなことを思い浮べながら、日本のキリスト教の黎明期、明治時代のクリスチャンの存在の大きさを覚えます。私たちは、彼らと同じようにはなれないかもしれませんが、今あるところで輝けばいいのです。男性で明治期に生まれた人はいなくなったそうです。明治は遠くなりにけりです。野口英雄、新渡戸稲造、津田梅子のことは、ちゃんと学んでおきたいものです。











2024.7.7


永遠のいのち


 ヨハネの福音者3章16節は、覚えておきたい聖句の1つです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 この「永遠のいのちを持つ」は、現在形で書かれています。イエス・キリストを信じるならば、永遠のいのちを持つことができます。なんと幸いなことでしょうか。 これがイエス・キリストの救いだからです。 


 なぜ救いの証しをするのでしょう。 
Ⅰヨハネ5章11節にはこうあります。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。と述べています。」


 どのような証しでしょうか。ここに2つのことが述べられています。1つは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ。もう1つは、そのいのちが御子のうちにあるということです。


 「いつ永遠のいのちとは何ですか」と聞いてこられたら、どのように答えますか。ずばり、それは御子なるキリストのいのち、神のいのちということができます。「神のいのち」は、エペソ人への手紙4章18節にでてきます。






聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



















2024.6.19

 

アバ・父よ

 

 主イエスは、ゲッセマネの祈りの中で父なる神を「アバ、父よ」と呼んでいる。これは、マルコの福音書の中にだけでてくる。ゲッセマネの祈りは、主イエスが十字架にお架かりになる直前できごとである。

 

 その時の状況は大変に主苦しいものであった。「イエスは深く悩み、もだえ始め、………『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです』」(マルコ14:33〜34)とある。そんな祈りの中で、父なる神への呼びかけが、「アバ、父よ」であったのは中止に値する。これは、幼児語だと言われている。「天のおちうちゃん」の意味なのだそうである。主は、祈りのときには、日ごろから父に甘えるかのような呼びかけをしていたのであろうか。この時だけであったのか。

 

 さて、この祈りの目的は、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」(36)というものだった。これに対してみ父からの応答はなかったようだ。十字架こそが、主に託された使命だった。この祈りの後に立ち上がられた主は、「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。 」(14:41)と言われた。主が世に来られたのは、「罪人を招いて悔い改めさせるためです。多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。」(マルコ10:45)とある。

 

 さて、私たちは、「天のお父さま」と祈っているだろうか。「アバ、父よ」とは言わないだろう。「アバ、父よ」には、愛のあふれる父親の姿を思い浮かべるのは私だけであろうか。









聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)















2024.6.9

 

父の日によせて

 

 母の日が、教会から始まったことはよく知られている。次週、6月の第3日曜日は、父の日である。これもまた、教会から始まったものである。ことの始まりは、1910年6月19日 アメリカ、ワシントン州スポーケンであった。市内にあるいくつかのプロテスタン教会が、父親をテーマに説教があり、父親たちに感謝の思いを込めてバラの花が送られた。

 

 「父の日」を呼びかけたのは、ソノラ・スマート・ドットさん。28歳の女性である。父はウィリアム、母はエレンで、二人の間には6人の子どもが生まれた。その6番目の出産が原因で亡くなった。父親は、6人の子どもたちを育てなくてはならなかった。それを助けたのは、6人中の最初に誕生したソノラさんだった。下の5人はすべて男の子だったという。

 

 ソノラさんの教会では、1909年に「母の日」の記念礼拝が行われた。その時に彼女は、「父の日」もあるべきだと考えた。教会関係者にその思いを訴えて、祝われるようになった。父への感謝を表したくても、すでに父は召されている。その思いを、明日の父の日礼拝に表せればと願っている。












2024.6.2

 

洗礼準備会  

 

受洗希望者が現れた。牧師の私は、洗礼準備会を行うことにした。祈り備えして臨んだ。一方的に話することはしないで、聖書のことばと質問を記したプリントを準備し、自分で答えを見つけて書き入れてもらう方法にした。

 最初に、「イエス・キリストは、神ですか人ですか」と、質問して答えをみことばから見つけてもらうことから始めた。簡単なはずであるが、考え込む人がいるかもしれない。答えは、「イエスは神であり、人である」と、書いてあればよいわけである。

 私も自分でプリントにそのように書きこんだ。ふと一つのみことばを思い起こした。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)である。主イエスの地上での歩みをとおして、話されたことや成された一つ一つは、神がどのようなお方かを示すものである。そのことも伝えなくてはと思わされた。  すべての信徒にも、基本から学んでいただく意味が充分にあると思わされた。






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2024.5.19

 

口にすべきは感謝

 

   一人の信徒の方が、公民館でアドラーという心理学について受講する機会があったそうである。「感謝を何度も受け取ることによってのみ、人間は自律的に成長していく勇気を獲得することができる」と、アドラーは言っているそうだ。感謝を口にするのはクリスチャンだけかと思っていたが、感謝の大切さな気づいて心理学に応用しているようである。ある教会に電話したときのことだった。電話口にでた女性が、「お電話、感謝します」と言っていた。30年経た今でも印象深く覚えているのだから、よほど心に残っているのだろう。このようなパウロのことばを思い起した。「口にすべきは感謝の言葉です」(エペソ5:4)

 

 最近は、Lineでのやり取りが増えてきている。「ありがとうございます」とか、「感謝します」を、よく用いるようになった。人間関係の潤滑油のようにも思える。「感謝します」と言われて、腹を立てる人は滅多にいないのではないか。

 

 人への感謝と共に、神への感謝はどうだろうか。パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。」と、記している。(Ⅰコリント1:4)   神にも人にも感謝して生きるその人こそ、神の願われる人の姿ではないだろうか。







聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)











2024.5.5

 

塩屋聖会も新しい流れが

 

 第89回塩屋聖会は、2024年5月3日、4日、6日までの期間行われています。3日間ともに午前と午後の2回で、計6回の集まりです。対面とyoutubeを用いて行われていますので、私たち夫婦は、youtubeで参加しています。

 

 2日目の午前と午後は、青年聖会として開かれた。ソングリーダーが立てられて、次々と若い世代に沿うワーシップ・ソングが、キーボード、ギター、ドラムのバンド演奏によって行われました。塩屋聖会は、歴史がある聖会です。私自身も、聖会で献身の召しを受けてきたし、聖会の司会もさせていただいた。歴史があるというのは、容易に変えられないものです。あえて、2日目は青年に合うプログラムにイメージ・チェンジしてきていました。

 

 聖会が変わってくると、それぞれの教会の賛美のあり方にも影響が大きいと思われます。本気で、青年を捉える、捉えられる教会の姿勢をと、願わされています。





聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)












2024.4.28

燃える

 

 復活された主イエスが自らを隠して、二人の弟子たちと行動を共にされた。

11キロの距離だから3時間くらいだろうか。

ルカの福音書24章にあるエマオ途上の出来事である。

 

 他の弟子たちも含めて主イエスの復活が信じられない。

だからといって、復活されてすぐに自らを彼らにお示しにはならなかった。

 

 どうされたのだろう。

「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 」(27) 

結果、二人の弟子たちの心に変化が生じた。

二人は話し合った。

「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(32)   

聖書が説き明かされれば、燃えるのである。

みことばが正しく説き明かされるように祈ろうではないか。







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2024.4.6

 

主イエス・キリストの交わり

 

 教会は、交わりを大切と考えている。使徒信条では、「聖徒の交わり」という条文がでてくる。コリント人への手紙第一1章9節には、「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」とある。

 

 ここでの「神に召されて」とは、救われる意味である。「召す」は英語では、「calling」である。「呼び出し」の意味であることに気がつく。今や世界には、80億人に近づいてきている。その世界中から「呼び出して」、救いの中に招き入れてくださるのである。

 

 その目的は、「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れ」るためであった。「交わり」とは、双方向の関係である。愛す、愛される関係と言えばよいのだろうか。聖書の神は、人格神である。私たちの祈りを聞かれる方である。神はことばを持って御心をお示しになられる。主イエスとの交わりを通して、私たちの信仰がより高くに引き上げられるに違いない。







聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)