牧師ひとくちメモ



2022.7.3

聖書通読は新しい発見の連続

 

 聖書通読をしていると、新しい発見がある。詩篇139篇を新改訳2017で読んでいて13節に目が止まった。「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で組み立てられた方です。」とある。その「内臓」が、直訳では「腎臓」であると知った。「腎臓」に疾患がある私にとっては、日々、腎臓を意識しながら食生活に注意しているのだから、興味深く思えた次第である。

 

 旧約聖書では、何度か腎臓についての記述がある。出エジプト29:13「その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪を取り出し、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。」にあるとおり、動物の犠牲としてでてくるケースが多い。なぜに、「腎臓」が犠牲の一部として捧げものになるのかはわからない。

 

 通読をとおして、新たな発見できるのは大きな喜びである。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)










2022.6.26

オカリナの楽しみ

 

 このところ、ほぼ毎日のようにオカリナを握っている。もっぱら楽譜は、新聖歌である。メロディーであれば、8割は吹けるようになってきた。一日、少しずつでも練習すれば、遅々たる前進であっても、モノになっていく。

 

 オカリナを始めるようになって、楽譜が見えてくるようになった。今まで、歌ってきた賛美歌が、正しく歌えているかもわかるようになってきた。さまざまな曲を、楽譜を見ながら聞けるのは喜びである。

 

 オカリナは吹けば音が出るが、人に聞いてもらえる音が出るまでには時間を要する。その意味では、やさしい楽器ではないかもしれない。これからの高和オカリナclubをどのように指導していこうか。祈りの中にある。何よりも、楽しんでもらえればと願っている







2022.6.19

父の日によせて

 

 母の日が、教会から始まったことはよく知られている。6月の第3日曜日は、父の日である。これもまた、教会から始まったものである。ことの始まりは、1910年6月19日 アメリカ、ワシントン州スポーケンであった。市内にあるいくつかのプロテスタント教会が、父親をテーマに説教があり、父親たちに感謝の思いを込めてバラの花が送られた。

 

 「父の日」を呼びかけたのは、ソノラ・スマート・ドットさん。28歳の女性である。父はウィリアム、母はエレンで、二人の間には6人の子どもが生まれた。その6番目の出産が原因で亡くなった。父親は、6人の子どもたちを育てなくてはならなかった。それを助けたのは、6人中の最初に誕生したソノラさんだった。下の5人はすべて男の子だったという。

 

 ソノラさんの教会では、1909年に「母の日」の記念礼拝が行われた。その時に彼女は、「父の日」もあるべきだと考えた。教会関係者にその思いを訴えて、祝われるようになった。父への感謝を表したくても、すでに父は召されている。その思いを、明日の父の日礼拝に表せればと願っている。









2022.6.12

合併後に初の洗礼式

 

 6月5日は、ペンテコステ礼拝でした。この日、合併後に初の受洗者が2名与えられました。教会の聖礼典は、洗礼式と聖餐式だけである。私たちの教会では、聖餐式はほぼ第4聖日に行われる。洗礼式は、受洗希望者が備えられ、洗礼準備会をして晴れて式を行うことになる。

 

 洗礼式とは、どのような式なのだろう。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(ローマ6章3-4節)新改訳2017では、「洗礼」という言葉が用いられなくなって、「バプテスマ」となった。「バプテスマ」とは、「キリストとともに葬られ」る式である。古い自分が処分せられて、「新しいいのちに歩む」(同4節)ことができるのである。

 

 洗礼の意味を聖書に求めるなら、重く深いものがあります。それだけに、洗礼式は、会衆が喜びに溢れます。それぞれが初心に戻るときでもあります。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







2022.6.5

主われを愛す

 

 日本で最初の賛美歌は、「主われを愛す」(新聖歌505番)である。1872年に第一回在日宣教師会議が開かれた。そこで、ジュリア・ニルソン・クロスビーが、Jesus loves me,this I knowの翻訳が発表された。今から、150年前の出来事である。「エスワレヲ愛シマス、サウ聖書申シマス、彼レニ子供中、信スレハ属ス、ハイエス愛ス、ハイエス愛ス、サウ聖書申ス」と訳されていた。

 

 幼き日に、日曜学校(教会学校・CS)でよく歌ってきた。訳詞は、少しずつ改変されてきて1903年に、現在、歌っているものになったと言われている。

  主われを愛す

  主しゅわれを愛す、主は強ければ、 

  我(われ)弱くとも、恐れはあらじ。

  我(わ)が主(しゅ)イェス、我が主イェス、 

  我が主イェス、我(われ)を愛(あい)す。

 

 この「主われを愛す」が、日曜学校に通っていた当時はアメリカ生まれの賛美歌であるのき知らなかった。どこで生まれた賛美であってもいいのであるが、日本人賛美歌作家の手によるものがもっともっと生み出されるのを願っている。2012年に誕生した現代福音賛美歌を手にして思うのは、圧倒的に海外の賛美歌作家を翻訳したものである。「主われを愛す」から150年。新しい賛美歌を生み出す責任が、日本の教会にあると思っている。







2022.5.29

隠れた奉仕


 平日の牧師の働きは、信徒のみなさんにはわからない面が多いのではないだろうか。どこに訪問に行ったかも明らかにしないこともある。また、信徒の中には、「今している奉仕について、週報等で明かさないでください」と、言われることがある。

 「あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:4)   主イエスの教えとして聖書に記されているとおりである。

 牧師が肝に銘じておかなくてはならないこと。見える奉仕は誰にでも大切なのはわかる。説教、司会、奏楽、受付や会場は、奉仕者名が週報に知らされているくらいだから。言うまでもないくらいだ。それと共に、教会というところは、隠れた奉仕によって支えられているということである。牧師として、心に止めているかである。6月5日には、2名が洗礼予定である。それは、主の恵みによるのだが、私たちも隠れたところで祈ってきた結果でもあるのだ。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)






2022.5.22

賛美の力 音楽の力

 

 日ごろは、YouTubeやネットラジオで音楽を楽しんでいる。疲れた時は、チェロやギターのソロの演奏を聞くことが多い。オーケストラなど多くの楽器が重なったものは敬遠がちである。人それぞれ、音楽の好みがあっていいと思う。特に、クリスチャンにとって賛美することは生活の一部になっている。

 

 高和オカリナclubをスタートしたのは2017年である。それから5年の歳月が流れるが、この2年はコロナ禍のために集まる機会が失われた。4月から集まりを再開した。この5月で2回目が終わった。共に集まり楽器演奏を楽しむことによって、何か活気が戻ってきたように感じている。

 

 人間は、音楽が好きである。歌うことも、聞くことも、演奏することもである。生活の中に音楽を取り入れると、活き活きしてくる。このところ毎日のように夫婦でオカリナを楽しんでいる。新聖歌を開き二重奏をしている。賛美の力、音楽の力を大切にしていきたい。








2022.5.15


ベラカの谷

 

 押部谷チャペルのすぐ横には、明石川の支流の福住川が流れている。大雨が降ると一挙に水嵩がます。日ごろは、チョロチョロと流れるに留まる。牧師館の2階から上流側をみると、なかなかの景観である。押部谷ムーミン谷と言われていたと聞いている。聖書には、ベラカの谷と呼ばれるようになった。歴代誌第二20:26に記されている。「四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、そこで主をほめたたえた。それゆえ、人々はその場所の名をベラカの谷(祝福の谷)と呼んで、今日に至っている。」(Ⅱ歴代誌20:26)

 

 今、ロシアによるウクライナ侵攻に、世界中が振り回されている。南ユダ王国第4代のヨシャファテ王の時代に、アラムから大軍が攻めてこようとしていた。彼は、神の前に祈った。「攻めて来るこの大群に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません」(13)   神の声があった。「これはあなたがたの戦いでなく、神の戦いである」(16)   攻め上ったかれらは、戦場で主を大声で賛美した。彼らは、何と同士打ちを始めた。敵は、滅ぼし尽くされた。彼らが戦場に残していったものは、分捕り品となった。

それを持ち運ぶのに、3日を要するほどであった。

 

 ウクライナもそのようなことが起こらないのだろうか。「ベラカ」とは、祝福の意味である。祈れば道が開けるのではないか。私たちも、日々の歩みの中で苦闘することがある。祈り聞かれる主は、道を開き、祝福へと変えてくださると信じたい。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







2022.5.8

塩屋聖会も新しい流れが

 第87回塩屋聖会は、2022年5月3日から5日までの期間行われた。3日間ともに午前と午後の2回で、計6回の集まりであった。新型コロナのことがあり、対面とYouTubeで行われた。私たち夫婦は、YouTubeで参加することにした。

 3日目の午前と午後は、青年聖会として開かれた。ソングリーダーが立てられて、次々と若い世代に沿うワーシップ・ソングが、キーボード、ギター、ドラムのバンド演奏によって行われた。塩屋聖会は、歴史がある聖会である。私自身も、聖会で献身の召しを受けてきたし、司会もさせていただいた。歴史があるというのは、容易に変えられないものである。あえて、3日目は青年に合うプログラムにイメージ・チェンジしてきた。メッセージは、献身を求める内容であった。

 聖会が変わってくると、それぞれの教会の賛美のあり方にも影響が大きいと思われる。本気で、青年を捉える、捉えられる教会の姿勢をと願わされている。






2022.5.1

小坂忠 師 召される

 4月29日、牧師としてシンガーソングライターとして日本のキリスト教に大きな足跡を残された小坂忠師が73歳の人生を閉じられました。5年前からガンを患っておられました。私が神学校に行くことになったのは、1976年でした。その年に、娘が重度の火傷から奇跡的に回復したことを機に、クリスチャンとなりました。ミクタム・レコードを設立したのは、1978年でした。


 神学校を卒業したのが1980年でした。名前が、少しずつでも知られるようになりました。
青垣キャンプ場での中高生キャンプでは、彼による曲が紹介され始めるようになりました。
特に、岩渕まことさんと2人で、奉仕されるようになりました。私自身は硬派だったこともあって、礼拝でミクタムで歌われているものを、礼拝で選ぶことはしませんでした。

 時の流れでしょうか。2001年に岩渕まことさんによる GOD BLESS  YOUが新聖歌に収められたことが起点となったこと。オカリナでワーシップソングを演奏するようになって、垣根が取っ払われました。いまでは、ワーシップ・ソングも新聖歌も、歌詞の味わいを大切にしながら楽しんでいます。





2022.4.24

主イエス・キリストの交わり

 

 教会は、交わりを大切と考えている。使徒信条では、「聖徒の交わり」という条文がある。コリント人への手紙第一1章9節には、「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」とある。

 

 ここでの「神に召されて」とは、救われるという意味である。「召す」は英語では、「calling」である。「呼び出し」の意味であることに気がつく。今や世界には、80億人に近づいてきている。その世界中から「呼び出して」、救いの中に招き入れてくださるのである。

 

 その目的は、「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れ」るためであった。「交わり」とは、双方向の関係である。愛す、愛される関係と言えばよいのだろうか。聖書の神は、人格神である。私たちの祈りを聞かれる方である。神はことばを持って御心をお示しになられる。主イエスとの交わりを通して、私たちの信仰がより高くに引き上げられるに違いない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)







2022.4.17

 


フェイク・ニュース

 

 ロシアが、ウクライナ侵攻して残虐行為を行っている。ウクライナのブチャでも、市民がロシア兵による残虐行為によって多くの命を失った。ロシアのラブロフ外相は、「欧米諸国によるフェイクニュースだ」と主張している。ロシア側は、国際法に触れる戦争行為に対して、フェイクニュースと返答するのが、常套手段のようなのだ。

 

 主イエスがよみがえって、遺体が収められていた墓が空になった。番兵は、墓で起こったことを祭司長らに伝えた。彼らは番兵に対して、「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。」(マタイ28:13) 番兵には金まで握らせてまでして、 正しい出来事が伝わらずに、事実は曲げられたのである。結果、「この話は今日までユダヤ人の間に広まっている」(同:15)とある。

 

 祭司長側は、現在的に言い換えるとすると、「イエスの遺体は、弟子たちが墓から盗み出したのだ。イエスの復活は、弟子たちの作り話だ。フェイクニュースだ」となる。いつの時代も事実を曲げようとする者がいる。正しい教えが正しく伝わらないのは、取り返しがつかないほどの損失が生じることになるかもしれない。イースターの説教を準備しながら考えさせられた。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




  2022.4.10



ナツメ椰子の枝

 

 本日は、棕櫚の聖日である。口語訳聖書では、「しゅろ」とあったものが、新改訳聖書2017では、「なつめ椰子の枝」(ヨハネ12:13)と訳されている。この椰子の葉は、大きいもので2メートルの大きさがある。主イエスが、ロバの子にまたがってエルサレム入城したときには、一面を葉で敷き詰めたのであろう。

 

 ナツメは、デーツと言われる。その実は、お好み焼きソースの原材料として欠かせないものである。イスラエルを始めとして、この地域はナツメの産地である。中東戦争時には、デーツの輸入ができなかったために、お好み焼きソースの生産がストップしたそうである。

 

 主が、エルサレムに入られたといううわさが広まり、人々はエルサレム入城の準備を急いだ。急ぎ準備ともなると、代用品でもと思うかもしれない。しかし、ナツメ椰子の枝を意識して準備したのである。調べてみると理由があるのがわかった。

 

 この〝しゅろ”は、旧約聖書の創世記にでてくる「いのちの木」をあらわす植物なのです。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、その園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」(創世記2・10)しゅろの木は、エデンの園にある「いのちの木」であり、同時に〝神の祝福”のシンボルでもありました。(月刊いのちのことば 2013年3月号 杉本智俊) 



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




 

 2022.4.3


キリストの流された血の効力

 

 70歳近くなると、医者と縁が切れなくなってくる。毎回、同じクスリ(薬)が処方される。クスリを反対に読むとリスクになる。本来は、クスリがいらない生活でありたいと願っている。飲み忘れのクスリがある。食品には、賞味期限があるがクスリにもあるのだろう。

 

  今、レント(受難節)の中にある。キリストが十字架上で流された血の意味を、よく考えて見なければならない。エペソ1:7には、「このキリストにあって、私たちはその血による贖(あがな)い、背きの罪の赦しを受けています。」とある。私たちは、21世紀に生きている。キリストの十字架は、2千年も前の出来事である。それでも血の効力は、昔も今も変わるところがない。キリストの血の効力は、保たれているのである。

 

 科学技術は、凄(すさ)まじい勢いで進歩している。多くの牧師のデスクにはパソコンがあって、キーボードを叩きながら説教準備をしている。それがふつうの光景になっている。しかし、聖書の教えは変わらない。昔も今も、みことばを解き明かして説教することに変わりはない。もちろん、主イエスの流された血の効力も、変わりはないのである。 



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




 

2022.3.27


一書の人

 

 ジョン・ウェスレーは、「一書の人」と言われている。私たちは、多くのクリスチャンが用いられた秘訣を、さまざまな読み物を通して知ることができる。間違いなく、ウェスレーが主に用いられた秘訣は、聖書に生き、聖書を解き明かしたところにある。

 

 netで、「一書の人恐れよ」という言葉がでてくる。誰の言葉かはわからない。たった一冊の本が、人生を変える力、時代を動かす力を持っているというのである。時代や社会が大きく変わってきている。そうしたものに容易に揺り動かされては、自分を見失うことになってしまうかもしれない。聖書という「一書」を、クリスチャンは座右の書としたい。

 

 「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」(Ⅱテモテ3:15)   聖書は、救いの書である。そのような救いの本は、聖書以外にはないと、確信を持って言える。永遠のベスト・セラー、聖書を生活の中で読もうではないか。「一書の人」と、言われるようになりたいものである


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

2022.3.20

 

善き力にわれ囲まれ

 

 3月13日に、高和教会と押部谷教会の合併式を船田献一教団委員長の司式によって行いました。プログラムの立案は牧師が担当しました。特別賛美を入れたいと思いました。3日ほど祈って考えて、「善き力にわれ囲まれ」(新生賛美歌73番)を、ギター伴奏と、女性2人のボーカルに託すことにしました。

 

 さて、「善き力にわれ囲まれ」は、ボンフェッファーが1944年に獄中から婚約者に送った手紙に曲を付けたものです。福音派の牧師であった彼は、ナチス・ドイツに抵抗したことにより、1945年4月9日に絞首刑になります。当時の状況を頭に置きながら、歌詞を味わってみると、意味が掴(つか)み取れます。今は、ロシアによるウクライナ侵攻により、建物や公共施設が攻撃を受けています。多くの人々が、ウクライナの悲惨な状況には心を痛めています。

 

 「善き力にわれ囲まれ」の歌詞の繰り返し部分には、「善き力に守られつつ 来るべき時を待とう 夜も朝もいつも神は われらと共にいます。」に慰められます。見えざる神の御手を覚え、どのような状況下に置かれても、「神は われらと共にいます。」と。見えざる御手(みて)を、信仰の目を通して見ることができるのは、なんと幸いなことでしょうか




 


 

2022.3.13

 

ウクライナに平和を

 

 1945年に第2次世界大戦が終わってから、この日本において戦争がない。70年余り平和が保たれている。感謝の他ない。今、核兵器を持つようになった。核が戦争の抑止力になるとの考えるからである。実際に核を使用すると、多くの人命を失うばかりか、核汚染が各地に広がり住めなくなる。

 

 ロシアは、ウクライナに戦争を仕掛けた。ロシアのプーチン大統領が戦争をする理由がさっぱりわからない。世界の大半の国が、プーチンの暴挙と捉(とら)えている。私個人は、戦争について真剣に考えてこなかった。戦争は、失うものが多すぎるからである。ウクライナの男たちは、自国を守るために銃を握り戦わざるを得ない。

 

 一日も早く戦争が終結するように祈っている。西側先進国はロシアに対して経済的締め付けを行なって、困窮(こんきゅう)させようとしている。それ以外に方法が見えてこない。私たちクリスチャンは、祈りをもって神の助けを求めている。「万軍の神 主よ 私の祈りを聞いてください。 ヤコブの神よ 耳を傾けてください。」(詩篇84:8)  ウクライナのために祈りを忘れてはならない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



 

2022.3.6


教会音楽の歴史

 

 教会生活にあって、礼拝の中で賛美を献げるのは大きな喜びです。「あなたの愛唄歌は」と、お聞きすることがあります。クリスチャンであれば、賛美歌や新聖歌の中から1つ、2つの曲を示してくれます。日常生活の中でも、歌っておられるでしょう。

 

 教会音楽の歴史となりますと、今から3千年前まで遡(さかのぼ)ります。竪琴の名手であったダビデは、王となり国が安定したこともあり、神の箱をエルサレムに移して、そこに神殿を立てて四六時中、賛美が神に献げられるようにできればと願いました。願ったようになりました。そのことは、歴代誌Ⅰの25章に詳しく記されています。

 

 私たちは、礼拝の中で招詞(しょうし)には、詩篇のみことばが取り上げられます。ダビデの歌が中心にまとめ上げられています。詩篇は、エズラが編纂(へんさん)したと言われます。当時、神殿での礼拝に、詩篇が用いられていたのがわかります。礼拝と賛美の関係を知ろうと願うなら、旧約聖書のダビデについて記されているところから、学ばれることをオススメします。




 

2022.2.27


平和を祈ろう

 

 エルサレムは、「平和の町」の意味があります。ウクライナにロシアが侵攻している。世界中からこの度のロシア侵攻に対して避難の声が上がっている。日本に住んでいると、第二次世界大戦以降、戦争の経験がありません。私は、戦争を知らない世代である。平和があたりまえと思っていたのが、そうでないことが思い知らされた。

 

 「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」 (Ⅱコリント13:11) 聖書の神を、パウロは「愛と平和の神」と記している。ペテロは、ローマ皇帝ネロのもとにあって、迫害を受けていた当時のクリスチャンに向けて、「悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。」(1ペテロ3:11)という。

 

 「平和、平和」と言うだけで平和になれるものではない。「平和を求め、それを追え。」は、強い表現である。一人ひとりが、真剣に平和を追い求めなくてはならない。まずは、平和のために祈ることから始めようと願わされている。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)





 

2022.2.20

キリスト信仰

 

 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)   366日元気が出る聖書のことば(岩本遠億著) 3月18日「信仰はキリストから来る」の中で、次のようにしるしている。「信仰」とはイエス・キリストご自身が造り、完成したものであると。全人類の罪を贖う十字架の苦しみによって造られ、復活によって完成したキリストの救いの技そのものを「信仰」と呼ぶのだと。

 

 クリスチャンにとっての信仰は、キリストの十字架と復活に直結している。その域を踏み外してはならない。「信仰がわからなくなった」とか、「多分、信じていると思う」といったあやふやなものであってほしくない。人間の主体性に基盤がある信仰は、さまざまな状況下にあって揺れ動くことになる。

 

 確かに私たちは弱い存在であるが、恵みがわたしたちの信仰を支えてくれているのである。

三度に渡って主イエスを知らないと言ったのはペテロだった。そのペテロに対して主イエスは、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」(ルカ22:23)とある。感謝しようではないか。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.2.13

口にすべきは感謝

 

   ある教会に電話したときのことだった。電話口にでた女性が、「お電話、感謝します」と言って話された。もう30年も前の話なのですが、いまでも印象深く覚えている。このようなパウロのことばを思い起した。「口にすべきは感謝の言葉です」(エペソ5:4)

 

 最近は、LINEでのやり取りが増えてきている。「ありがとうございます」とか、「感謝します」を、よく用いるようになった。人間関係の潤滑油のようにも思える。「感謝します」と言われて、腹を立てる人は滅多にいないのではないか。

 

 人への感謝と共に、神への感謝はどうだろうか。パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。」と、記している。(Ⅰコリント1:4)   神にも人にも感謝して生きるその人こそ、神の願われる人の姿ではないだろうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.2.06

慰めに満ちた神


 個人的に事あるごとに思い起こす聖句がある。コリント人の手紙第二1章3節もその一つである。「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。」と、ある。

 この手紙には、パウロの逆境体験が記されている。同8節に、「アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。 」と、記している。アジアで起こった出来事の詳細は、聖書中どこにも記録として残されてはいない。

 3節の「慰めに満ちた神」は、パウロ自らの体験から確信しているところである。神から慰めを受けるとは、なんの苦しみも消え去るはずだと受けとめている人がいるかもしれない。そうではない。苦しみに対処するための、強さ、励まし、希望を受けることができる。あなたは、神からの慰めをいただいておられるだろうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.30

大事には一致

 

「大事には一致を、小事には自由を、すべてのことに愛を」
 ネットをあちらこちら見ておりましたときに、上記の言葉に出会いました。これは17世紀、ドイツ「敬虔(けいけん)派」の父である神学者フィリップ・ヤコブ・シュペーナーの言葉とありました。大変に心惹かれるものがありました。私たち神戸西聖愛教会が、統合合併を2021年3月に決めました。大きな決断でした。幸いにも、2教会の教会総会におきまして、全会一致で決めることができました。

 

 何が大事か。それをしっかりと踏まえなくてはなりません。何事にも一致を求めると、動きが取れなくなるでしょう。シュペーナーは、「小事には自由を、」と述べています。大枠で一致すれば、みんながそれぞれの裁量で動けるようにするのが大切です。

 

 最後は、「すべてのことに愛を」とあります。教会に限らず、家庭、学校、福祉、地域社会においても、愛なくばすべては無に等しくなってしまいます。



2022.1.23

この世の知恵と神の知恵

 

 

 コリント人への手紙第一の1章から3章を読んてみますと、何と27回も「知恵」がでてきます。パウロは、この世の知恵と神の知恵について述べているのがわかります。この世の知恵者が集まって、叡智(えいち)を結集してみてもイエス・キリストの救いはわからないのです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても…」(1:18)   クリスチャンでない人に、救いを話しても、バカげた話しとしてしか聞こえません。

 

 神の福音は、すべての人に向けて明らかにされていますが、この世のものではありません。イエス・キリストが全人類の罪の贖(あがな)いのために、身代わりとなられました。その主イエスを信じるだけで救われます。その救いの方法は、神の知恵によるものです。ですから、この世の知恵ではわかりません。

 

 なぜでしょう。1:27にこうあります。「知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」と。この世ではおろかと思われる人、弱い者が、救いに入れられて喜びと希望に満ち溢れた証しを前に、信じれなかった愚かさに気がつき、恥じ入る人たちがいるというわけです。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.16

72人の派遣

 

 ルカの福音書9章には、12人の弟子たちの派遣がでてきます。10章には72人の弟子たちの派遣がでてきます。2人を一組にして遣わすのです。10章17節から20節には、その72人が帰ってきて主イエスに報告します。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもたちでさえ私たちに服従します。」(17)  その報告は、喜びに満ちたものでした。

 

 喜ぶ彼らを前にして、20節、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と、言われました。どうしたら、「名が天に書き記され」るのでしょうか。イエスがわがキリストであると信じれば記されます。そのことこそが、一番の喜びとしなくてはならないのです。

 

 実際に奉仕しながら学んでいくことが多くあります。経験を踏まえなければわからないのです。時々の指導が、役立つものになります。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.9

神を愛する

 

 昨年の1月、信徒のみなさんに一文字抱負を記していただきました。「愛」という字を記しておられた方が、4人おられました。その全員が、女性でした。「愛」の漢字の作りは、「心」と「受」が合成されているのがわかります。愛は、心で受けるものです。

 

 聖書の神は、愛なる神です。Ⅰヨハネ4:8には、「神は愛だからです」とあります。愛は、愛し愛されでなくてはなりません。私たちは、神を愛しているでしょうか。その愛は、半端な愛であってはならないのです。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」(マタイ22:37)と、あるからです。「尽くし」が、3度もでてきます。

 

 「神は愛だからです」からもわかるように、聖書の神は人格神であるのがわかります。改めて、「神を愛する」の意味を霊想してみてはいかがでしょうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2022.1.2

 

みことばを受け取る

 

 心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばには、あなたがたのたましいを救うことができます。(ヤコブ1・21) 

 みことばを味わっていますと、うちに深く語りかけてきてくださっているのに気づく時があります。そのみことばを、自らのものとして受け取るときに、人を救い、慰め励まし助け、変える力をも持ちます。

 

 この一年、日々にみことばに接する中で、一つでも二つでも何度も反芻(はんすう)してみてください。礼拝には説教要旨を準備しています。Zoomを併用する時代になりました。少し前までは簡単に記していましたが、より説教に近いものにしてどのような条件下でも受け止めやすいものにしています。

 

 教えられたことを、短くてもよろしいのでノートに書いて置かれるのがいいと思います。情報が溢れるほど流される現在ですが、みことばこそが人を生かすということを忘れないでいただきたいのです。恵みが溢れ祝される一年となりますように。

 

 

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)